「年間第30主日」(C年)説教
2013年
1027日・加藤 英雄師

 

  イエスは信仰、神の義についてのたとえを話された。 二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人、もう一人は徴税人です。ファリサイとは分離されたと言う意味があります。ファリサイ派とは汚れから分離された者、修道者の生活を送っている者です。律法を守ることによって汚れから清められる。そして、これこそ神の道だと考えたのです。
イスラエルはローマに占領されている。占領下にあるイスラエルがいかに信仰生活を送ることが出来るか、神様のみ心である律法をどのように守ることが出来るか。ファリサイ派の人たちが自分たちの信仰によって、いかに律法を守るかを示しているのです。
神殿で祈るこのファリサイ派の人は自分の信仰生活に誇りを持っています。神様わたしはこのように、神様に祈ることが出来、感謝します。わたしはみ心である律法を十分守っています。奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者ではありません。わたしは週に二度断食します。全収入の十分の一を献げます。 律法では断食は年に一度、贖いの日に定められている。それでは足りない、もっと厳しい断食の日々を設けた。モーセがシナイ山に上った木曜日、そして、シナイ山から帰った月曜日に断食をする。わたしは熱心に信仰を味わっています。修道の道を歩むことが出来ている嬉しさを喜んでいます。このように出来る力を与えてくださった神様、ありがとうございます。 このファリサイ派の人は、自分が「出来る者」であることを誇りに思っている。この徴税人のような者でないことを感謝するのです。  一方、徴税人は遠くに立って祈る。神殿の前に立つことが出来ない。わたしは罪人。不正を行う者です。ローマに差し出すために、イスラエルの人たちから税金を取り立てる。徴税人は人目を忍んで神殿に行く。そっと祈る。神様の前に出て、まず、罪人のわたしを赦してください、と語る言葉しかない。
二人の姿を見て、イエスは言われます。義とされて家に帰ったのはこの徴税人であった。
イエスはファリサイ派の人に問うのです。あなたの祈りのうちに神様に語っているその行いは完全なのですか。神様の恵みは、もう、いらないのですか。あなたがたは律法を更に厳しくして守っている。週に二度の断食を行い、十分の一の献げものをなさる。あなたはその断食の苦しみに、そして、豊かな献げものに何を思い巡らし、何を求めているのですか。あなたは隣人とどのようにつながっているのですか。あなたに隣人の叫びが聞こえていますか。自然の素晴らしさに感動していますか。あなたはこの徴税人を見下した、しかし、この徴税人の苦しみを感じられたらいいのです。
このたとえを聞いて、わたしはパウロを思いました。天におられるイエスはダマスコに行こうとしているパウロに声をかけられた。サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか。主よ、あなたはどなたですか。わたしはあなたが迫害しているイエスである。イスラエルン神を信じている。イスラエルの伝統に従って、純粋に神様の道を歩んでいると思っていた。しかし、神様が言われる。あなたはわあたしを苦しめている。神は律法のうちにわたしはいない。律法が神様のうちにある。神様の御心に入りなさい。律法を超えて神様と出会った。神様と出会ったパウロはキリストのうちに命を懸けて、神の命の喜び、福音を告げ知らせるのです。御心につながっている。これこそ信仰である。
ファリサイ派の人の信仰の道は厳しい。律法をそれ程までに大切にしている。しかし、自分が救われるために律法を守っているのではないですか。その人が純粋に律法の道を歩む。自分の城を律法によって強く、完全なものとする。パウロは神様はイスラエルのためにあると思っていました。
パウロが伝統のうちにイスラエル信仰を目指した。神様は問うのです。隣人はどこにいるのですか。すべての人を造られた神様は、あなたの神はわたしではない。パウロの信仰は神様に届いていない。 ファリサイ派の人の信仰は神様に届いていないのです。徴税人は律法を行うことが出来ない。神様、苦しんでいるわたしを顧みてください。徴税人の心はただそれだけです。神様を思いながら歩みます。その心が神様に届いているのです。
カインとアベルの話に、神様の心を見ます。カインはアベルを殺してしまった。カインは苦しんで言います。わたしの罪は重すぎて負いきれません。わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしと出会う者は誰でも、わたしを殺すでしょう。主は言われます。カイン、お前は大きな罪を犯した。しかし、お前はわたしの子、お前を殺す者をわたしは赦さない。主は、カインに出会う者が誰もカインを撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。
堂々とわたしに出会う時が来る。清くなりなさい。一つずつ、悪いところを乗り越えなさい。徴税人にそう言われるのです。わたしたちにそう言われるのです。
正しいとは、神様の言葉を心に刻み、神様の御心に入ることではないでしょうか。


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