「年間第32主日」(C年)説教
2013年11月10 日・加藤 英雄師


 

   マカバイ記を読みました。カトリック教会ではマカバイ記が正典になっている。今日読んだところでも、お母さんの目の前で、8人の息子の兄弟が信仰のために命を落とした。兄弟それぞれがむごい拷問を受け、殺されたのです。殉教者が生まれている。信仰のために戦っている、命を落としている。この殉教を心にとめる、この出来事を忘れてはいけないと思います。
  兄弟は言います、宣言するのです。この世からわたしたちの命を奪っても、神様はわたしたちに新しい命を与えてくださる。わたしたちは新しいいのちに生きる。殉教者を神様は見捨てない。見捨てるはずがない。  神の道を歩んだ者に神の喜びが与えられる。神様の愛を信じる。復活を信じる。ここに、はっきりと復活を思う心があるのです。
 サドカイ派の人たちがイエス様を試します。人が死んでも死なない、そんな不思議な復活という出来事があるのですか。イエス様は復活、新しい「いのち」がある事を知って欲しいと思っておられる。サドカイ派の人たちは復活の考えを否定している。サドカイ派の人は律法を大切にする。モーセの律法こそが神様の御心。モーセ五書が本来の聖典。復活などは外国からの影響を受けた考えではないかと思っている。サドカイ派の人たちは伝統を重んじ、改革を嫌うのです。
 復活は神様から「いのち」の喜びです。永遠に生きる神様の「いのち」に入ることです。 イエス様はわたしたちに命の尊さを語ります。人は生まれる。神様のいのちを注がれて生まれる。この世の生活を送って、ついに死ぬ。土の器(Ⅱコリント4・7)が壊れ、塵に帰るように、人も塵に戻ってしまうのか。命がなくなってしまうのか。  生きることが命。つながって働くことが命。生きるとはつながって生きることではないでしょうか。見る、聞く、語る、触れる、つながっていることです。人はつながらなければ生きてゆけない。つながることが愛です。愛がなければ生きて行けない。愛が生きること、愛が命です。愛も、命もじっとしていません。つながって働いていることです。
 見る、神様から頂いた目で見なさい。神様から頂いた目で神様の造られた自然を見る。自然は神様の喜び。喜びを見る。 聞く、神様から頂いた耳で聞く。神様の思いを聞く。語ってください。神様の言葉がズシーンと心に刻まれる。 語る、神様から頂いた口で語る、神様の思いを語るのです。しかし、もう一度思い起こします。わたしたちは語る者ではなく、聞く者ではないですか。語りたい人は自分の思いを語ります。自分の中にある欲求を語ります。自分の中にある煩いを語ります。語って、語って、自分が空になるほど語るのです。そんな自分を受け取ってくれる人がいればいい。まず、わたしたちが聞く者になるのです。生きるつながり、聞くことに大事なつながりがあるように思います。聞く。思い切り、何もかも語ってもらう。つながり、そんな場を作ります。
 つながりを考えた時、第一に人は神様とつながっています。命によってつながっています。あなたはどれほど神様を愛していますか、と問われる。たくさん、たくさん愛しています。あなたが神様を愛するその大きさによって、神様はあなたを愛される。たくさん、たくさん愛すれば、たくさん、たくさん愛される。  人はこの世で神様から示された、神様から与えられた道を歩んでいます。イエス様の姿のうちに示された道です。その道につながって神の国がある。その道の中でこの世の命を終える。神様から与えられた道を歩んでいる、その時から神の国は始まっているのです。人のいのちはどこに行くのですか。土の塵となってに消えてしまうのですか。人の命は神様のもとに戻ります。この体は土に塵となります。体は無くなるのですか。体は全く、新しい体になります。復活は新しい体のうちに、新しいいのちに生きるものとなるのです。
 神の国はどういうところですか。祈りに満ちている。喜びに満ちている。神様の生きている力のうちにいるのです。わたしたちは神の国に入れば、働かない、楽な生活が出来ると思ってしまう。そうではない。神の国に入ったら、働きたくて仕方がなくなるのです。神の国にいるこの喜びを伝えたい。この世で様々な出来事のために苦しんでいる人のために祈る、祈りたくて仕方がないのです。こど ものために祈る。孫のために祈る。仕事が楽しいのです。
 この世の煩いから脱出できた時、神の国の出発となるのです。この世から神の国に歩いて行く。その道は険しい。厳しい道です。自分の安心のために、霊性のために苦しむのではない。隣人の荷物を背負って、隣人が生きるために働く道です。
 神の命に帰る、それが復活です。


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