「年間第33主日」(C年)説教
2013年11月17日・加藤 英雄師


 

  今日、イエス様はわたしたちは終末を語られます。
 第一朗読マラキ書を読みます。マラキはBC 5世紀の前半に活躍された預言者です。イスラエルはバビロンから解放されました。BC515エルサレムに神殿が再建された。イスラエルの新しい出発です。イスラエルは信仰に道から外れていた。神様のみ旨に従って歩む国にしよう。律法を大切に生きる。神様の恵みのうちに生きる。しかし、生活は全くよくならない。神様の栄光が見えない。神様はわたしたちを心にかけてくださっているのか。人々の神様へに熱意は冷めていった。祭儀が形体化していった。 神に仕えて生活しているものは貧しい生活で苦しんでいる。しかし、神様を全く信ぜず、自分中心に生きているものは豊かな生活を送っている。彼らは悪事を行っても栄えている。
 罰がない。高慢な者、悪を行う者が栄えている。 主は言われる。その日が来る。神様が来られる。いつか分からない。天使も、預言者も、人の子も分からない。天の父だけが知っている。すべてのものが裁かれる。
 すべてのものは神様が造られたものです。人は神様の「いのち」によって生きるものなのです。マラキは言います。人は藁です。大地に生きる藁。大地に立ち、大地を歩く。しかし、小さい、弱い藁。大地に根を下ろし、光、水が与えられて育つ。小さい、弱い藁に神様の「いのち」が流れている。
 その日、み言葉が激しい火、炎となって藁を襲う。み言葉が心に刻まれている藁は生きる。悪いところが焼かれる。人はすべて炎の中にいる。高慢な者、悪に満ちているものは焼き尽くされる。
 その日はいつ来るかわからない。その日のために準備するのですか。いや、その日のために信仰心を持って生きよというのではない。試験があるから、試験に受かるように試験勉強をするようなことではない。
 その日、裁かれる。神様が人に求めている、わたしたちに求めていることは、一番大切な律法、 「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい。」(マタイ22・36-40)ではないですか。
 毎日が主の日。主の日に目を向けながら、毎日を主の日とするのです。
   ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。「あなた方はこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」
 エルサレムの神殿が聳えている。神殿は信仰の場です。神殿で神様と出会う。神殿に神様は住まわれる。イエスは言われるのです。神殿は壊される。その日には見ることも出来ないほど、石に他の石が乗らないほど壊される。神殿がなくなるとは信仰がなくなることではないかと思うのです。
 平安、平和がなくなる。苦しみを与える出来事、背負うことの出来ない困難な出来事、様々な身の周りの出来事が起こります。それ以上に、戦争、暴動、大地震、ほうぼうの飢饉、疫病が起きます。そのまえに、人々がわたしたちを襲います。その時が信仰の証の時です。
 カトリック本所教会は、日露戦争の時、賠償額が少ないと怒った人々が教会を焼き討ちしたと聞きました。第二次大戦の時、教会は敵対視されました。
 親しい人から裏切られる生活を送ることになる。親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。日常生活が壊れる。イエスは言われます。わたしのところに来なさい。キリストの場に集まりなさい。そこが平安の場です。「いのち」の場です。
 主の日を思い巡らします。
 主の日、神様と出会う日を待ち望むことが出来ますように。


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