「待降節第1主日」(A年)説教
2013年12月1日・加藤 英雄師


 

  人々はイエスに出会った。イエスの話を聞いた。イエスの業を見た。イエスは終末の時の預言者ではないかと思った。神様からの人。人の子。イエスは終末の時の預言者。終末とはこの時代が終わる、新しい出発がある、その大きな変革の時と考えたらいいと思います。ある人は言います。イエスの誕生を祝う者は、イエスの十字架を見た者は、イエスの復活を信じる者は、主の再臨を待ち望みながら生活する。
 「人の子が来るのは、ノアの時と同じである。」
 ノアの出来事を思い巡らします。ノアは箱舟を造った。 ノアの家族が山の上でとんでもなく大きな物を造っているぞ。木々を切り、集め、組み合わせている。ノアのところに言って聞いてみよう。「何を造っているんだい。」「舟を造っているのさ。」「何だって? 海からこんなに遠い所で、しかも山の上で、舟を造るのだと? 何を考えているんだ。」「これは神様の言いつけなんだ。わたしたちの世は快楽を求める世界になっている。神様はこの世を水で洗い清めようとなさる。だから箱舟を造って、神の道を歩く者となる生活を送るんだ。みんなも、わたしたちと一緒に箱船を造ろうではないか。」「あっはっは。馬鹿な奴だ。」 このようなことを命じられるのは神様だからです。人の思いをはるかに超える出来事をしなさいと命じられる。その人にとって、全く得にならないことを神様の思いとして受け取り、行うのです。信仰の道、従順です。神様は、その時、ノアの一家を選ばれた。
 人の子のうちにあるかみsが来る時、終末の時、人々はノアの方舟を見るようにイエスを見ている。 イエスの神のみ心を見る人がいた。反対に、イエスの神はユダヤの伝統のうちにある神ではない。最高法院はそう考えている。イエスは毎日、得にならない業を示し、神を語った。人々はイエスを見ている。しかし、自分たちの生活を変えようとしない。神様のみ心が行われるまで、誰も気づかない。世の悪をすべて拭い去る洪水、そして、神の子イエスの十字架による刑死。
 終末の時、神様はこの世に残す者、神様のもとに呼ばれる者を選ばれる。その基準は誰も分からない。
 身を覚ましていなさい。神様のみ心を見つめなさい。イエスの姿のうちに歩み続けなさい。
 パウロは言います。今、この時、眠りから目覚める時ではないか。わたしたちの日常の生活を、静かに、ゆっくりと思い巡らす時、変わらなければならないと分かるのではないか。
 今、この時、救いが近づいている。神様はこの世に、こんなに悪を赦している。悪の支配は救いの時です。その悪にあなたはどのように接していますかと問われているのです。悪のうちにあって、悪を打ち切る。欲求を断つ。 キリストを身にまとって歩む、人と接する、生活するのです。夜は更け、日は近づいた。闇の行いから手を引き、日の中、キリストのうちに生活しなさい。
 終末を思い浮かべながら、毎日、イエス様と語り合い、歩いて行きます。


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