「待降節第3主日」(A年)説教
2013年12月15日・加藤 英雄師


 

  イエス様、あなたは本当に救い主、メシア=キリストですか。洗礼者ヨハネは今、牢にいます。自分の弟子たちを送って訪ねます。イエスは言います。あなた方が見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。
 ヨハネはイエスに洗礼を授けました。ヨハネはイエスを見た。そして言います。わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたがわたしのところに来られたのですか。
 イエスが洗礼を受けて、水の中から上がられると、天がイエスに向かって開いた。神の霊が鳩のようにイエスに向かって降り注いだ。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。(マタイ3・13~)
 ヨハネはイエスに力を見たのです。イエスこそ、神様のみ旨を行う方。ヨハネは神様が来る前に準備をするもの。人々の心を神様に向ける。ヨハネは叫ぶのです。悔い改めよ。天の国は近づいた。
 悪い木は、良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。悔い改めにふさわしい実を結べ。我々の父はアブラハムだなどと思ってもみるな。良い実を示しなさい。
 イエスも語ります。神様の温かさを語ります。神様の愛を語ります。人の弱さに、神様は父親のように厳しく試練を与え、母親のように慰め、包んでくれる。生きなさい。生き生きと生きる、喜んで生きる。イエスの前に喜びの力、福音が今、現れた。 「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」
 見えない、歩けない、聞こえない、皮膚病で社会の中に住めない、これは生きるための不自由さではない。見えない人の世界、歩けない人の世界、聞こえない人の世界をこそ大切にするのです。見える人は見る力が与えられていると思っている。聞こえる人は聞く力があたられている。そうです。与えられている。しかし、何を見たいのか、何を見ているのですか。何を聞きたいのか、何を聞いているのですか。
 貧しい人は福音を告げ知らされている。貧しい。生きることの厳しさを知っている。食べる、飲む。金を得る。食べる、飲むの大切さを十分知りなさい。人は食べて生きる、飲んで生きるのです。
 福音は生きる喜び。食べる、飲むが生き事だと知った時、生きることの出来ない人が見える。
 イエスは言うのです。死者は生き返る。自分の力で生きている。自分はこの通り生きているという人は死んでいるのです。人は支えられて生きているを知りなさい。隣人によって支えられている。生きるとはつながって生きるのです。自分が支える者となってつながる。体の食べ物を作るものとなる。心の食べ物を作る者となる。死者は生きる者となる。
 人々はヨハネに会いに砂漠のヨルダン川に行った。イエスは言う。何を見に行ったのか。ヨハネの姿と出会いたかったのか。ヨハネの姿を見る。ヨハネの言葉を聞く。ヨハネは預言者だ、そうだ、預言者以上の者だ。
 しかし、イエスは不思議なことを言います。 「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大なものは現れなかった。しかし、天の国で最も小さなものでも、彼よりは偉大である。」
 ヨハネはこの世で神から与えられた道を歩んだ。身をもって歩んだ。そのヨハネがなぜ天の国で一番小さい者なのですか。この世に生きてきたからではないでしょうか。体の不自由な人は神の国に入ることが出来ないのです。
 重い皮膚病の人は社会の人間関係に入れないのです。律法によって、天の国への門が決まっているのです。
 イエスは言います。この世を終わり天の国に行くのではない。この世から天の国に出発しなさい。わたしの体、わたしの血によって生きる。律法になっているから善いのではではない。生きる命にかかわっているから善いのです。そう思う時、体の不自由な人の命が見えます。独りでは生きることの出来ない人の命が見えます。
 イエスの誕生を待っています。新しい、生きる命への出発を大いに祝いたいのです。
荒れ野よ、荒れ地よ、喜び踊れ。
砂漠を、喜び、花を咲かせよ。
野ばらの花を一面に咲かせよ。
花を咲かせ 大いに喜んで、声をあげよ。


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