「年間第7主日」(A年)説教
2014年2月23日・加藤 英雄師


 

  第一朗読・レビ記は言います。「あなたたちは聖なるものとなりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。」
 マタイによる福音書は言います。「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」
 聖なる者となる。完全な者となる。神様はわたしたちに何を求めておられるか考えて行きたいと思います。
 レビ記を読みます。
 イスラエルの人々、あなたたちは神様のものではないか。神様を求める、神様のみ心のうちに生きる国ではないか。神様のもの、聖なる者となりなさい。
 聖なるとは、全く神様のものになると言うことではないかと思います。神様にのみつながっている。わたしたちは、毎日の生活の中で自然と出会っている。自然とつながっていると感じています。
 また、人と出会っている、人とつながっています。自然とつながっている、人とつながっている。大切なつながりです。 しかし、そのつながりをもう一度思い巡らします。自然が生きている、自然に支えられて、わたしたちが生きている。そう思っている。
 人と出会い、人の中で生活している。仲間となる、友となる。自分が人の中で生きている。そう思っている。 それはすべて人の世のことではないか。
 聖なる者となる、神様のものとなる、とでは全く違うのではないか。この世の出来事を全く捨てなさい、と言われているのです。この世の出会い、つながりを全く捨てるのです。自然、人を捨てる。
 神様とだけつながる。すべてを捨てて、神様の中に入った時、自然が見える。新しく自然と出会う。神様の中から人と出会う。新しく人と出会う。
 完全な者となりなさい。天の父は完全です。神様は「あってあるもの」。神様がおられることが完全な状態、完全な姿です。一方、人は不十分です。神様は人に完全な者になりなさいという。そうか、神様の言われる完全は、わたしたちが考えている完全と違うのだと知るのです。
 完全とは、その状態がそのものの姿だということです。人は不十分である、人は弱い、小さい者である。それが人の完全さなのです。そして、人はまた、弱いから強くなりたい、小さいから大きくなりたい。支えられて生きているから、支える者になりたい。そして、強くなるために歩いている、大きくなるために歩いている。これが人の完全である姿です。
 完全な者となる。自分の弱さを知っていますか。自分の小ささを知っていますか。不十分である自分が少しでも善い者であろうと歩いていますか。
 不十分なわたしたちが、自分自身のように隣人を愛しなさいと言われます。不十分だからこそ、心と体を以って、祈りながら、手助けします。
 イエスはわたしたちに語られます。
 あなたたちは「隣人を愛し、敵を憎め」の生活を送っているのではないですか。隣人を愛する、隣人に手助けをする、大切な事です。でもそれだけではいけない。相手にされない隣人に目を止めなさい。また、敵を愛しなさい。自分を迫害している人のために祈りなさい。
 わたしたちは安心した生活を送りたいのです。わたしたちを苦しめようとするのですか。平安をくれないのですか。
  本当の平安はそこにはない。 相手にされない隣人の手助けをする。苦労して、気遣いをして、時間をかけて、お金を使って、手助けをする。その人が喜んだら、笑顔を見たら、その喜びはあなたの心に響く。敵がほほ笑むようになったら、それ以上の喜びはない。それが平和ではないですか。
 また、人の完全についてこのような考えがあります。神様の完全さへの参与が人を完全にするというのです。神様であるイエス・キリストの完全さは愛の完成=受難・十字架・復活です。イエスの完全さに与かって人は完全になるのです。
 イエスの受難の道を歩きます。イエスの十字架を見つめ、自分に与えられた十字架を背負って歩きます。復活を信じます。


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