「四旬節第5主日」(A年)説教
2014年4月6日・加藤 英雄師


 

  主は言われます。あなたは眠っているのですか。死んでいるのですか。わたしはお前たちの墓を開く。生きるものとなりなさい。イスラエルの地に行きなさい。あなたは自分を死んでいる者にしている。命は神様から注がれた喜びです。命を奪うもの、いのちを与えるものは神だけです。人と出会い、自然と出会い、神様へ向かう道を歩みなさい。
 イエスはラザロが病気で苦しんでいる事を聞かれました。イエスは言われます。この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子が栄光を現す。
 イエスの「いのち」は人を生かす「いのち」、人に「いのち」を与える「いのち」です。
 渇いている人はだれでもわたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。(ヨハネ7・37~)
 体の不自由である。不自由さに苦しんでいる。なぜこんな苦しみが与えられているのですか。目が見えない、手足が動かない、重い皮膚病である。そして、ついには死が訪れる。青年が死ぬ。
 イエスは言われるのです。 体の不自由さ、重い皮膚病、そして死も神の出来事を現す出来事です。
 マリアもマルタも、大勢のユダヤ人たちもラザロの死を悲しみ、悼んでいる。イエスはラザロの死を姿を目の前に見た。人々の悲しみ、悼みを心で受け取った。イエスは憤りを覚え、興奮され、言われた。どこに葬ったか。こちらです。イエスは涙を流された。 イエスは言われます。石を取りのけなさい。墓石が取りのかれた。イエスは祈る。イエスは深く祈る。
 そして大声で言われる。「ラザロ出て来なさい。」
 神の力、神の栄光の時です。これこそ神の栄光。いのちの喜びです。
 イエスこそ、わたしたちを神の命へ導かれる方です。イエスのうちに生きる、イエスと共に歩む。
 愛する者がこの世を去った。愛する者のいのちを奪ったものに対する怒りがある。その力に対抗するため、その力を打ち破るために、自らの命を捨てるのです。いや、十字架を背負って歩き、十字架の上でいのちを献げられるのです。イエスは人を愛された。イエスはいのちを捨てるほどに人を愛されたのです。
 人は人の子の栄光を見ました。
 人にいのちの喜びを与える栄光。人を死から救う栄光。そして、人のために十字架を背負い、いのちを献げられる栄光。命にかえても人の命を愛する。これこそ神の栄光です。
 わたしたちは神様のこれほどまでに愛されているのです。神様の命に生きる。神様の命の喜びを味わう。
 あなたに命にかえても大切にしたいものがありますかと問われていると思います。
 キリストの姿を思い巡らし、荷物を背負いながら、キリストと一緒に神様への道を歩んで行きたいと思います。


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