「受難の主日」(枝の主日)(A年)説教
2014年
413日・加藤 英雄師

 

 バビロンにいるイスラエルは毎日が苦しい生活です。どんなに苦しくても神様はお前たちを見つめている。喜びの言葉を語りなさい。神様は朝ごとに、わたしたちの心に語られる。神様の言葉に力づけられ、くじけそうな心に光が注がれる。どのような迫害にあっても―打たれる、唾を吐きかけ られる、誇りである髭を抜かれる、嘲りの言葉を浴びせられる―わたしたちは神様のもとにいる。 イスラエルであることを忘れてはいけない。
わたしたちはキリスト・イエスを見た。キリストに神様の姿を見たのです。見栄えは貧しい、しかし、この男は毎日、人々に出会う。語る。慰めを語る、希望を語る、いのちの喜びを語るのです。神様が見えないのですか、あなたの目が神様から離れている、あなたの欲求が神様から離れてしまうのです。あなたがどんなであっても、神様はあなたを見つめています。神様のもとに帰りましょう。イエスと出会う人は和やかさに包まれる。
今日、受難の主日です。イエスが苦しみ、悲しみ、残酷な迫害を受け取られた。神様の内におられるキリスト・イエスになぜ苦しみがあるのですか。残酷な仕打ちがあるのですか。 神様であるキリスト・イエスに何の苦しみ、悲しみがあるのですか。なぜ受け取られたのですか。
イエスは総督ピラトの前に引いて行かれました。ピラトは尋ねます。お前がユダヤ人の王なのか。 イエスは何も答えない。イエスのその問いに対する心を思います。ピラト、あなたは神のみ心を考えたこともない。神に導かれているユダヤ人を知らない、ユダヤ人の歴史を知らない。王とは何か知らない。長老、祭司長が何を求めているか知らない。そして、「いのち」について考えたことがない。イエスは言われるのです。 わたしがユダヤ人の王だと、あなたが言っていることです。
最高法院の率いるユダヤ人の思いは―イスラエル一つ、律法によって示されている神様の道を従順に、忠実に歩む。そして、神様が王。イスラエルの王は神から与えられる、権威、力です。
ピラトはユダヤ人の問題、神様の問題には関与したくなかった。ピラトは言う。 今、祭りの時、この期間に一人の罪人を釈放する。バラバ・イエスと呼ばれる罪人がいる。キリスト、救い主と呼ばれるイエスとバラバどちらを釈放してほしいか。祭司長、長老は群衆を説得する。群衆は叫ぶ。バラバを。キリスト・イエスはそどしたらよいか。群衆は叫ぶ。十字架につけろ、十字架につけろ。
イエスは十字架を背負い、人々の前を歩く。処刑場ゴルゴタへの道を歩く。そして、十字架に釘付けされる。イエスは十字架に釘付けされ、ゴルゴタの丘の上に立つ。兵士たち、群衆はイエスを嘲る。力のない王。力のない偉大な預言者。この男は病気を癒した、悪霊を追い出した、死者に命を与えたという。今、お前は苦しんでいる。この苦しみから逃げることもできないのか。
律法学者たちは言います。木にかかり、死んだ者は呪われている、と律法にあるのをお前たちは今、見ることになる。イエスに出会った者、イエスの優しさの触れた者、イエスに病を癒された者、自分の目の前でイエスは命を救った、それを見た者、イエスに神様を見ていた者たちは口をつぐんだ。
午前9時ごろから、イエスは十字架につけられている。昼3時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」 イエスは再び大声で叫ばれ、息を引き取られた。
何の苦しみ、悲しみですか。イエスは人です。人の苦しみを味わった。誰も助けてはくれない。愛する弟子たちも逃げ去った。神様は呼んでも答えてくれない。誰にもつながっていない。独り、捨てられてしまう。どん底の苦しみを味わった。
天の父はイエスに受難を求められた。なぜこのような苦しみを味わわなければいけなかったのですか。イエスは地獄の底にある苦しみ、悲しみを知ったのです。 十字架の上に釘付けされる。苦痛が体にしみる。孤独を知った。捨てられて死ぬことを心と体で知った。どんなに優しくても、どんなに親しくしてもらっても、俺のこの苦しみは絶対分からない。孤独の苦しさなんか神様には分からない。神様は俺の世界とは別のところにおられるんだ。
いや、イエスは本当の人だ、本当の神様だ。
イエスの死が、律法の文字を打ち砕いたのです。律法の内に神様がおられるのではない。 生きておられる神様、働いておられる神様。神様はわたしたちとつながっておられるのです。 生きる苦しさを知っておられる。だから、生きる喜びをお与えになる。つながることを大切さを知っておられる。だから、人を包まれる。死の苦しさ、寂しさを知っておられる。死は出発だを、ご自分の心と体で示されたのです。
受難に自分の命に代えてでも愛される、神様の愛を見たのです。


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