聖木曜日・主の晩餐の夕べのミサ(A年)説教
2014年4月17日・加藤 英雄師


 

  会食は和やかな時、語り合う時、喜びの時です。家族が集まる、仲間が集まる、この時を感謝します。ユダヤ人の一番の喜びは、昼時、大きなテーブルにおじいちゃん、おばあちゃん、兄ちゃん、姉ちゃん、妹、弟、家族がみんな集まって食事をすることです。この野菜美味しいね。お父さんが畑でとって来たばかりだよ。お母さんが腕を振るって料理したんだ。嬉しいね、この料理はみんな神様の贈り物だよ。おじいちゃんもおばあちゃんも、皆が喜んで一緒に食べる、一緒に飲む。こんな嬉しいことはない。天の国の喜びも宴会で現されているように思います。金持ちの門の前で、できものだらけで寝っころがっていた貧しかったラザロが死んだ。天に上げられた。天の国で、宴席についている。アブラハムの横に坐っている。(ルカ16・19~)
   「本当の仕事」 という話があります。
イギリスの青年が聖書を読んでいる。神父さんの話を聞いている。イギリスは世界に力を誇った。平和をもたらせたか。いや、不十分だ。インドを支配下に置いた。インドに平和をもたらさないばかりかインドのものを奪って金持ちが財産を作った。わたしたちはキリストの平和を作る力となるのです。イギリスの青年は決心した。お金を貯めてインドに行こう。インドがどんなところか見よう。そして、青年はついに、インドに来た。カルカッタの町。夕暮れ時、青年は町を歩いた。道には男の人たちが横になっている。暗い心になってくる。歩いていると、少女に声をかけられた。お金をください。食べ物をください。えっと思う。わたしは二日も食べていないのです。そんな薄い服を着ているのかい。これ一枚しかないのです。一年中この服です。あなたの一番したい事は何ですか。一番大切な事は何ですか。少女は答えます。一生に一度でもいいから、お父さん、お母さん、弟と一緒に明るい部屋で、笑いながら食事をしたい。青年の心に突き刺さるのです。これらの出来事はなんだ。ホテルの部屋に帰って落ち着きません。静かに祈れない。神様に叫ぶ。神様、あなたはあ平和の神様ではないのですか。命の神様ではないのですか。でも、神様あなたは何もなさらない。なぜ、何もなさらないのですか。青年はベッドに入った。しばらくして、眠りに入った。夜中、突然声がした。お前はわたしが何もしなかったという。いや、そうではない。わたしは大切な事をしたよ。わたしはお前を造った。
 平和。一緒の食事をすることが出来る。一緒に喜ぶ、これは平和への出発です。
今日は主の過越しを祝います。過越しの食事を祝います。過越しは、エジプトからの解放の時です。人は人の奴隷となってはならない。人は神様からの命を喜ぶ。過越しの食事は人の解放への出発です。 小羊を選ぶ。一歳の雄の傷のない小羊。裂いてその血を二本の柱と鴨居に塗りなさい。破壊するものがその家を過ぎ越す。小羊の肉を食べる。酵母を入れないパンを苦菜を添えて食べる。腰帯を締め、靴を履き、杖を手にして、急いで食べる。これが主の過越しである。(出エジプト12・1~)
イエスは弟子たちと一緒に過越しの食事をする。自分の時が来たことを悟り、弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。愛するとは自分が自分であることを捨て、相手の中に入ることです。イエスが弟子たちの中に入る。イエスの姿が弟子たちのうちに入るのです。徹底的に愛された。全くなくなる。「あぁ、そうか」と思ったのです。イエスがご自分の体と血を与えることです。自分がなくなってパンとぶどう酒に変わる。ご自分の思い、言葉、行い、人への愛、神様への愛、従順を人に与えることです。
  悪魔はイスカリオテのユダの内に入っている。イエスの言葉が聞こえない。イエスの愛を受け取れ ない。
イエスは食事の席から立ち上がり、たらいの水をくんで、弟子たちの足を洗い始めた。わたしはお前たちの世話をする。奴隷のように、全部を以て、お前たちを愛し、愛し抜く。ペトロは言う。主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか。
わたしのしていることは今あなたには分かるまいが、後で分かるようになる。師であるわたしがあなた方の足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。
主が、神様が、奴隷のような姿をとって足を洗われた。奴隷のように、そのためにすべてを与えられた。与える、清くなる。愛の内につながる。与えることによって清くなる、与えられたことを感謝して清くなる。
何のために清くなるのですか。わたしたち皆が、食事を一緒に、楽しく、微笑みながら、喜んで食べるためです。隣人が食事を楽しんでいる。その喜びを喜ぶためです。
キリストの過越し、新しい出発です。この世から神の国への出発です。神の国を目指して、神様から与えられた道を歩いて行きます。


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