「復活節第3主日」(A年)説教
2014年5月4日・加藤 英雄師


 

  イエス様は復活され、いろいろな形で復活を示されました。マグダラのマリア、エマオヘ向かう二人の弟子、トマスヘの出来事を思い巡らして行きます。
復活したイエスは墓所にいるマグダラのマリアに声をかけられました。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアはその男が園丁だと思っていました。「わたしの主が取り去られました。あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしがあの方を引き取ります。」その男は呼びかけます。「マリア」マリアの心にその声が響く。「ラボニ」「わたしにすがりつくのはよしなさい。」マリアはイエスを愛している。ずっとそばにいたい。世話をしたい。イエスは言うのです。あなたはわたしの何を求めているのか。わたしはあなたの中にいない。あなたはわたしの中にいない。すがりつく…自分の世界にわたしを入れてはいけない。自分を捨ててわたしを見つめなさい。自分を捨てなければ、わたしはあなたの中に入れない。(ヨハネ20・11~)
二人の弟子たちがエマオへの村に向かって歩いている。エルサレムで起こった出来事を語り合っている。イエスはわたしたちにとって何だったのか。イエスに言葉、行いに神の姿を見ていた。イスラエルはイエスによって解放されると期待を持っていた。エルサレムでローマへの反逆者として十字架の刑で殺されてしまった。イエスは苦しんで死んでいった。神はイエスを見捨てたのか。
今日、婦人たちが墓に行った。墓にイエスのご遺体がなかったそうだ。天使がそばに現れて言った。あの方はここにはおられない。復活なさったのだ。わたしたちはその話を聞いた。だれも婦人たちの話を信じなかった。二人は熱心に語り合っている。ある男が近づいてきて、一緒に歩き始める。何の話をしているのですか。この数日、エルサレムで起こった出来事です。ナザレのイエスは力ある預言者でした。祭司長、議員たちがこのイエスを引き渡し、十字架にかけて殺してしまったのです。その事があってから今日で三日目です。ところが婦人たちが墓から帰って来て言うのです。イエスは墓の中にはいなかった。天使が近づいてきて言うのです。あの方は生きておられる。
その男は言う。メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。その男は聖書全体を説明された。神様のみ心を、メシアとは何かを説明されたのです。
夕方になり、村に近づいた。一緒にお泊りください。弟子たちとその男は家に入られた。一緒の食事、席についた。食事を始める。その男はパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると二人の目が開いた。この方はイエスだ。しかし、イエスの姿は見えなくなった。
「トマス、わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである。」
復活の姿は見えるものであり、見えないものです。神様は見えない。(ヨハネ4・23~24) 復活は全く神様の命のうちに生きることです。見えない神様は数多くの預言者を立てました。人は預言者を受け取らなかった。神様はついにご自分を、ご自分の存在を人として世に現わされたのです。
エマオの弟子たちよ、あなたたちは自分の世界のなかで語り合っているのではないか。イスラエルを解放してくださると望みをもっていたイエスが十字架で殺されてしまった。神様は言われます。十字架にかかって、苦しんで殺されたイエスがイスラエルを解放するのです。
婦人たちの言葉を信じなかった。自分の仲間たちの信仰を信じなさい。イエスの語られた言葉を信じ、受け入れなさい。苦しんで死なれたイエスを受け入れようとしなかった。
今の服を脱ぎ捨てなさい。今の心を捨てなさい。復活したイエスが見える。イエス様を魂が見ている。人は目で見なければ信じない。心と体でイエス様と出会いなさい。
     


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