「キリストの聖体」(A年)説教
2014年6月22日・加藤 英雄師


 

   神様はすべてのものをお造りになった。人の必要とするもの何一つ欠けることはない。嬉しい事です。神様によってすべてのものが与えられているのです。しかし、わたしたちは神様のもとを離れてしまった。神様の思い、み心から離れた社会、強い者が支配者、力を振るう社会になって行く。人が皆、自分のために働くようになってしまった。隣人が見えない。平和がない、争いが起きる。神様を見つめなさい。悔い改め、今一度、神の国に戻ろう。この世から脱出して神の国に旅立つのです。新しい過越しです。ミサです。
ミサでパンとぶどう酒を祝別します。
大地の恵み、労働の実りであるパン、そして、ぶどう酒を感謝します。神に賛美、神に感謝。パンとぶどう酒が体を造る食べ物となる。それ以上に、新しい過越しの食事、ミサで、このパンとぶどう酒がキリストの体、キリストの血となる。
「わたしは天から降って来た生きたパンである。」 
み言葉であるイエスがパンとなる血となる。

今日、キリストの聖体を祝います。パンがキリストの体となる。ぶどう酒がキリストの血となる。キリストの体を食べます。キリストがあなたの中に入る。キリストがあなたの内に住む。

「わたしが与えるパンとは世を生かすためのわたしの肉のことである。」
イエスは言われます。わたしの体が世を生かすために働いた。この見える体で神様を語った。平和を語った。病を癒す、悪霊を追い出す、死者を生き返らせた。人の力を超える様々な業を示した。温かさ、和やかさで人を包み、励ましながら、希望を与え続けた。わたしはあなたが食べるパンなる。食べなさい。わたしを全部食べなさい。イエスの出来事、イエスの生涯が命。わたしの命を食べなさい。 
「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることが出来るのか。」
わたしたちは、イエスが言う「自分の肉」とはご聖体だと思ってしまう。イエスの前にいる人たちは言う。今語っているこの人の肉をわたしたちが食べられるはずがないじゃないか。 わたしの肉がイエスの姿です。この世で働くイエスの姿です。イエスのうちに入って、イエスを自分の中に入れて、イエスの後を従順に歩いて、イエスのように、イエスと見間違えられるように、働きなさいと言っているとは考えられないだろうか。思想、考えを受け継ぐのではない、形を受け継ぐのではない。イエスのうちに入る、イエスを受け入れる。
「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちのうちに命はない。」
わたしを食べなさい。わたしの外側に見えるもの、わたしの内側に見えるものを食べる。わたしの中に入って掴めるもの、すべてを食べなさい。何も残さずに食べなさい。わたしを生かしている血を飲みなさい。わたしがあなたの中に入ることになる。食べられ、飲まれた時、わたしはあなたの中に生きる。わたしがいるところに「いのち」がある。あなたは命の内にいる。

イエスの体であるパンを食べる。イエスの血であるぶどう酒を飲む。その時、その人はイエスが住む人になる。その人がイエスの体を造るのです。イエスが住む、自分の内に自分がなくなる。イエスの体、血を受けた人、皆がキリストの語らだを造って行くのです。



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