「年間第14主日」(A年)説教
2014年7月6日・加藤 英雄師


 

  わたしたちは今、もう一度、自分の信仰、信仰生活を思い巡らさなければならない、今日の神様のみ言葉は、わたしたちにそのように教えておられると思うのです。どこに向かって歩いているのですか。

  神様はどこにおられるのか。わたしの役割は何か。もう一度、思い巡らします。
神様を思う。神様を大切にしたいと思っている。それで十分ではないですか。大切にする:自分の生活、自分の感性が神様の思いの内にあったらいい。幼子のように大切にしていますかと問われる。
  入門講座で話します。おばあちゃんが亡くなった。孫がお父さんに聞きます。おばあちゃんはどこに行っちゃうの。お父さんは小学生の子を外に連れて行って、空を見て言います。おばあちゃんは空の星になるんだよ。空から僕たちを見ている。星は夜あるけれど、昼間は見えないよ。昼間もあそこにいる。見えなくてもそこにいる。いつもお前のことを見ている。おばあちゃんに会いたかったら、空を見る。おばあちゃんに向かってお祈りするんだ。うん。 おばあちゃんは星になって空にいる。わたしたちを見つめている。
  これが幼子の信仰です。賢くない信仰です。神様はどこにおられるのか、死とは何かは人の知識を超える出来事です。自分の役割は何か。自分の生活を超える信仰を持つ。隣人のために働く生活ではないでしょうか。
自分の感性が神様の思いの内にあったらいい。感性などという難しい言葉を使ってしまいましたが、自分の感情、自分の欲求、自分の考えです。自分がなくなればいい。自分が土の器であることを思い起こすのです。肉の支配下ではなく、霊の支配下にいなさい。
例えば、童話を読むことをお勧めします。日本の昔の童話です。その中に入って行くと自分が見える。柔和が見える、謙遜が見える。

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのところに来なさい。休ませてあげよう。
働く、根を詰めて行う。解放させるために働く。懸命に働く。何かを成就させるために一生懸命働けたらいい。 わたしのところに来て休みなさいとイエスは言われる。ほっとする。その時、仲間が見え、自分が見える。全部が見える。働いて休むのです。黙って、おいしいお茶を飲むのです。
イエスのところに行ったら、祈らなくてはいけない、聖書を読まなければいけないと思ってしまう。 そんな軛を負わせられる。だからイエスのところに行くのは日曜日だけでたくさんだと思ってしまう。その軛は支配しようとして負わせる軛です。祈りによって、聖書によって人の生活を支配しよう。
神様の軛はそんな軛ではない。軛とは二頭、三頭の牛にかけられ、一緒に歩くようにする板のようなものです。イエスと一緒に軛にかけられる。この軛に一緒につながれる。一緒に歩こう。嬉しい時は歌いながら、苦しい時はゆっくりと、時には、踏ん張って、時には、休みながら歩こう。自然を楽しみながら、隣人のことを思いながら、ゆっくりと歩こう。イエスという仲間と一緒に、結ばれて歩く。軛に結ばれている、あっ、イエスが見えない。イエスが離れたのではない、軛を嫌がって、先走りをしてしまう。イエスと一緒にいる。家庭に帰るように、安心がある。

わたしたちは信仰の道を歩きます。



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