「年間第15主日」(A年)説教
2014年7月13日・加藤 英雄師


 

  生きている。物はすべて生きている。命あるもの、命のないもの、被造物は生きている。わたしたちは命あるものは生きているが、命のない者は生きていないと思っていた。しかし、神様が造られ、その時、そこに置かれた。そのものは場所を持っている。そこにある。そのものは生きていると言いたい。それを大切にしたいのです。
雨が降る、雪が降る。情緒の内に雨を見る、雪を楽しむのですか。季節を楽しむのですか。神様は言われます。雨によって蒔かれた種が芽生える、木が茂る。その力を知ってほしい、驚いてほしい、楽しんでほしい。出来事はすべてつながりではないですか。わたしは語る。わたしのすべての言葉は出来事となる。主のみ言葉が出来事となる。わたしの言葉を聞き、受け入れてほしい。

主の言葉を聞く。こんな素晴らしい事があろうか。わたしたちは主の出来事を語りたいのです。

パウロは言います。被造物は虚無に服している。被造物は、命あるもの、命のないものも生きているのではないか。動物、植物、そして、山、川、海、空、石が虚無の世界にいる。虚無とはつながりのないこと。命のない、死んでいること。ここにいることに意味を見いだせない。神の子たちが現れるのを待ち望んでいる。神の子たちによって虚無の世界から解放されるという。神様によって造られたものはこの世界を造っている。意味のないものはない。ものは一つ一つそこにあるだけではない、一つ一つつながるものを持っているのです。人がそのものを見てそこにあること知る。木が茂っている、花が咲いている。川が流れている。道端に石が置かれている。山が聳えている。あることは虚無ではない。この世を造っている。しかし、この世のものが人の欲求のために使われているのであれば、金銭で求められるもの、商品になってしまったら、死んだものになる。人の欲求の世界にいる。神の子たちがものを生きるものとする。心で受け止めるのです。 そして、神様を見つめて歩くわたしたちが神の子たちと呼ばれたいと思うのです。

「その日、イエスは家を出て、湖のほとりに坐っておられた。すると大勢の群衆がそばに集まっていたので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。」
聖書では海、湖の水の世界を社会にたとえます。水に浮かぶ舟。舟は教会です。海に、湖に泳ぐ魚は人々です。イエスは湖のほとりに坐っておられた。イエスは社会の中で人々と共におられる。大勢の群衆がイエスのそばに集まって来た。イエスは舟の乗られた。そして語り始めるのです。

種を蒔く人になりなさい。 種を蒔く。机の前に座って、聖書を読む、本を読む時から、外に出る時です。大地に向かい合う時です。 種を受け取って、蒔く。種はどこからもらうのですか。種は何ですか。種はイエスの言葉です。イエスの業です、と教えられてきたように思います。ちょっと違う。 イエスの味を示すのではないかと思うのです。種とは、毎日のこの生活で、これが大切だ、これを知ってほしと思うことです。まず、自分の子に知ってほしい、親しい人に知ってほしい事です。子供といっても、まだ幼稚園に行っているような子に知ってほしい。まずは喜びです。楽しさです。
信仰生活を話すのですか。幼稚園に行っている子に、イエスの名を話すのですか。お祈りを話すのですか。イエスについて知っていることを話すのですか。そうではない。
食事について話すのと同じだと思います。その料理法など教えることは出来ない。まず、一緒に食べる。にこにこして食べる。おいしさを味わうのです。食事の楽しさを味わうのです。
イエスを食べる。イエスのおいしさを味わうのです。人への優しさ。思いやり、お話の面白さ、微笑み、喜びを一緒に味わう。祈りを話すのではない。一緒に祈る。心から祈る。

たとえで話す。種を蒔く話はたとえですか。なぜたとえで話すのですか。
たとえはギリシャ語で「側へ投げる」という意味を語源とするそうです。たとえの話を聞く。その話の中に入ることが出来た時、心が動く。たとえが心を動かす。頭で受け取ってしまうと理解できない謎になる。知りたい、その中に入って行きたい。心の耳で聞きたいのです。
種を蒔く。イエスの思いを語る、イエスの思いを示す大切な役割です。人と出会う。聞く者になる。声をかける。人の世話をする。そして、一緒にイエスを味わう。

イエスのみことばに内に歩きたいと思います。イエスを味わうことが出来ますように。



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