「年間第20主日」(A年)説教
2014年8月17日・加藤 英雄師


 

  ファリサイ派の人々、律法学者がイエスのところに来て言います。あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えを守らなのですか。イエスは話されます。わたしたちは神様のみ心に生きる。み旨のままに道を歩くのです。あなたたちの信仰は何ですか。ファリサイ派の人々律法学者は言います。律法の内にある神様の道を歩んでいます。純粋に神様のみ心に沿った信仰生活です。
イエスは言われます。「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている。」 初めに律法を与えられた父のみ心に出会いなさい。人の教えるむなしい正しさから離れ、神様のみ心を求め続けなさい。わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう。(マタイ15・1~)
 イエスはそこを去って、異邦人の地に行かれた。ある女の人が、異邦の地カナン出身の女の人がイエスを見つけ、叫びながらイエスに迫った。「主よ、ダビデの子よ。わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています。」イエスはその女の人を見つめている。弟子たちはイエスをその女の人の有様を見ている。弟子たちは、イエスは憐れみ深い方だから、その女の人を見つめて娘を癒されると思っていた。しかし、イエスは何もおっしゃらない。イエスは娘を癒さないと思って弟子たちは、イエスに言います。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ます。」
イエスはその女に言います。そして、目の前にいる弟子たちも聴くのです。わたしは神を語ります。神のみ心の業を示します。それは神様を見失った羊を見出し、神様のもとに帰って欲しいからなのです。わたしはイスラエルの失われた羊のところに遣わされているのだ。子供たちのパンを小犬にやってはいけない。子供たちはパンを知らない。パンを知った時、求める。おおいに求める。 あなたは何者ですか。 女の人は言う。主よ、ごもっともです。神様のみ旨が行われますように。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパンくずはいただくのです。イエスはその言葉に微笑んだ。
この女の人は神様を知っている。ダビデを知っている。預言者を知っている。イエスは女の人に言った。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように、」
婦人は、今、神様の道を見た。神様からの憐みを見た。
信仰とは何か。神様を見つめることです。神様の憐みのうちに、感謝することです。神様の思いのうちに働くことです。
いのちとは、生きるとは何か。いただいたいのち、注がれているいのちの力はすべてのものを感謝する喜び。自分が生きている、支えられて生きている。生きることの出来ない人を支え合いながらいのちを楽しむ。それがわたしたちに与えられたいのち、生活。
憐み:正しい事をする心、力です。 弟子たちもこの出来事を見ている。神様の姿を見ている。宣教とは誰に、何を伝えるかを、また、考え始めるのです。
わたしたちは異邦の地にいます。み言葉を聞いています。生きています。苦しい生活をしている人たちを知っています。憐みを知っています。
わたしたちの信仰生活は何ですか。思い巡らしてゆきたいと思います。
     


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