「年間第26主日」(A年)説教
2014年9月28日・加藤 英雄師



  第一朗読 エゼキエル書を読みます。
バビロンの捕囚の民は言います。父の罪を子が負うことはないと主は言われるのに、今、わたしたちはここにいて苦しい生活を送っている、捕らわれの生活をしている。バビロンの地に住まわせられた。これは、イスラエルの民が不信仰のゆえにイスラエルの土地を追われたからではないか。父の罪を今、わたしたちが受け取っている。主よ、あなたの道は正しくない。
主は厳しく言われる。聞け、イスラエル。
わたしの道が正しくないのか。正しくないのはお前たちの道ではないか。お前たちの父はバビロンに捕囚され、もう一度、神様をしっかり見た。見つめた、見つめ続けた。そして、信仰を知った。悔い改めて、新しい心で神様への道を歩いているのだ。
  お前たちは言う。この不自由な暮らしは父の罪によるもの。なぜ、我々はこの罪の結果としての捕囚の生活を強いられるのかと。 今、この生活を受け取りなさい。不便さを受け取りなさい。異国の生活を受け取りなさい。そこから神様を見つめ歩きなさい。
正しいとは、目の前にある出来事にあなたが何を見て、どう判断しているか、何を大切にしているかと言うことです。今いる状態が善い、悪いを問うのではない。 苦しい生活の中で善いものを選びなさい。その中で恵みの業を行いなさい。
悪の中にいる者が善いことを行えば、彼は自分の命を救う。生きる者となる。
  今ここにいる自分から出発しなさい。命に向かって歩きなさい。
イエスは神殿から商人を追い出された。イエスは働く。神様の心で働きます。人々は神様に目を向ける。律法に気を使うのではない。神様を思いなさい。神様は今、あなたを見ているのです。神様は生きておられるのです。 イエスはいちじくの木を呪いました。教会に木が茂っている。たとえば、教会が大地と考えます。わたしたちが木々です。イエスが教会に来ました。木々が茂っている。信仰生活を送っていますかと聞かれます。イエス様、あなたをいつも見つめています。隣人のために働いていますと答えたい。
 教会は賑わっているけれど、信仰の力が見えないと聖書のイエスは語っているのです。
信仰の実がならない木は枯れてしまいなさい。厳しい言葉です。実を結ぼうとしない木は、命が枯れている木です。 木が茂るとは、愛されて、愛して生きることです。
  愛されて:木が生きるのに十分なものが与えられている。日に照らされている、水が注がれている。仲間に囲まれている。
愛して生きる:生きることは感謝です。喜びです。生きる力があるとは愛する力があることです。
生きる=愛する。
イエスは祭司長、民の長老に話をされました。 ある人に二人の息子がいた。彼は兄のところに行き言いました。今日、ぶどう園に行きなさい。ぶどう園で働く、ぶどう酒を造る。仲間と一緒に働きなさい。兄は「いやです」と答えた。何か事情があったのでしょう。自分の事をしてからでないと時間があかないと思った。しかし、父がぶどう園で働くように勧めてくれた。父さんの言葉だ。「行こう。」僕はいつも自分のことを考えてしまう。
父は弟のところへも行って、同じことを言う。弟は機嫌よく、お父さん承知しました、と答えた。しかし、出かけなかった。父さんの言葉に反対してはいけない。だからすぐさま「はい」と言った。
しかし、目の前にある仕事をしていたら、行く時間がなくなってしまった。それほど行く気がなかったのだ。 兄さんと弟、この二人のうちどちらが父の望みにどおりにしたのか。
  祭司長、民の長老は言う。兄の方です。
イエスは言う。ヨハネはこの兄弟たちに義の道を叫んでいた。信仰の民、イスラエルは神様を忘れている。神様に返りなさい。義の道を歩みなさい。兄は戸惑いながら耳を傾けた。言葉は心に入って来た。義の道を歩みます。また、ヨハネの言葉は徴税人、娼婦の心に響いた。ヨハネを信じた。弟はヨハネを見た、聞いた。しかし、見ても見ない。聞いても聞かなかった。
祭司長、民の長老たち、あなたたちは弟ではないですか。あなたたちはヨハネの姿を見ようともせず、話を聞こうともしなかった。ヨハネの信仰を見ようともしなかった。
わたしたちの信仰生活をもう一度、見直したいと思います。
神様は何を示されておられるのか。神様はわたしに何を求めておられるのか。
     


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