「年間第28主日」(A年)説教
2014年10月12日・加藤 英雄師


 

  天の国のたとえが語られます。そういえば、天の国はいろいろなたとえで語られています。
たとえば、からし種に似ている、パン種に似ている、畑に宝が隠されている話をされる、商人が良い真珠を探し求めているようなものである、網が湖に投げ下ろされ、いろいろな魚を集める、ぶどう園で働く労働者、そのほかにもたくさん語られています。マタイの福音書を見ているのですが…。天の国はどういうところなのですか。天の国は語られてたとえが示す全部です。
律法を守れば天の国に入るのではありません。いや、律法を守って正しい生活を守ろうと思っている人には天の国は見えません。パウロは言われるのです。律法を完全に守らなければ正しい者にならない…そんなことは出来ない。
しかし、素直に、善いことをすれば天の国に入れるのではないですか。では、善い事とは何ですか。深い祈りですか。聖書の身読(深読)ですか。憐みの心ですか。 善い事とは心の中にあるのではありません。善い心から出る生活です。関係です。つながりです。
先程読まれましたパウロのフィリピの教会への手紙で、パウロは語ります。わたしは貧しい生活を経験する、豊かな生活を経験する。しかし、神様のみ心を忘れてはいない。神様への道を歩いている。貧しいというのは物が足りない、欠乏していることです。食べられない、水がないという状態です。豊かさとは周りにいつも物がある。飢えることがない、渇くことがない。しかし、隣人に心を留めることを忘れない。助ける、与えることを忘れない。隣人を自分のように愛しなさい。その神様のみ心を忘れない。 これが善い事ではないですか。
隣人を愛すること。これが愛です。 そして、あなたには隣人がいますかと問われているのです。

わたしたちは飢える、渇くことが分からなくなっているのではないかと思います。飢える、渇く、心が死んでしまう。 お年寄りが言います。じっくり話を聞いてくれる人がいない。語り合う場がない。何か不安の空気の中にいる。この世はおかしい。皆が速足で歩いている。新しい物が次から次へと開発されている。ゆっくりと語れない。じっと物を見つめようと思う心がなくなってしまう。静かに周りを見つめていたい。
隣人がいますかと問われて、周りには苦しんでいる人、悲しんでいる人は見当たりませんという。隣人は出会いです。出かけなさい。歩きなさい。出会いなさい。  善い事を味わう。自然に支えられている。人に支えられている。自然は善い事をする。人が善い事をする。あなたは自然に、人に善い事をしていますか。
王は言います。わたしは、わたしの王子のために婚宴を開く。王子の出発、国の出発である。この喜びを皆で祝おう。王は家来を人々、国の有力者に送った。国の有力者は、王の言葉を聞いても来ようとしない。王の言葉を聞いても聞いていない。王はまた使いを出す。わたしが食事の用意をし、食事を整えました。わたしの牡牛を屠りました。喜びの祝宴です。さあ、おいでください。
王の丁寧な招待です。二度にわたる招待です。
 これが終末の時の姿、神の国の完成の時の姿だと読みませんかと学者が言います。神様と共に味わう食卓は天の国の喜びです。この食卓は神様が用意されたもの。わたしの屠った牡牛。ドキッとする。あぁ、そうか。これこそイエスの体。イエスの体、血によって天の国は始まるのです。神様の苦しくも悲しい、神様の愛による食卓、これが天の国への出発なのです。
神への道を歩いていると思っている有力者たちは神様の言葉を、み心を無視する。自分の仕事をしている。ある者は王の家来を捕まえ、乱暴し、殺してしまう。神様はエルサレムを焼き払った。
王は言う。招いておいた人たちはふさわしくなかった。町の大道りに出て、見かけた者は誰でも婚宴の場に連れて来なさい。出会った人に声をかけます。王の催される婚宴への招待です。婚宴の喜びにあずかりたいです。このまま入っていいのですか。礼服を着なさい。悔い改めて新しい服、礼服を着なさい。この婚宴の祝いはあなたの出発になりますように。 王尾が客を見ようと入ってくると、れ服を着ていない人がいた。どうして礼服を着ないでここに入って来たのか。
招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。
わたしたちは皆神様の食卓に呼ばれています。神様の食事をいただき、そこから天の国への道を歩むのです。天の国を見た時から、天の国への道は始まっています。
神様の食事、ごミサではないでしょうか。 天の国への道を歩みましょう。



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