「待降節第1主日」(B年)説教
2014年11月30日・加藤 英雄師


 

   今日から待降節が始まります。今日のこの待降節が始まる前、毎日のミサの朗読は終末の厳しさでした。 黙示録が読まれました。ルカの福音書、終末の言葉が読まれました。
終末には苦しみが迫る。天地のもろもろの力が揺り動かされる。地上では海が逆巻き、荒れ狂う。イエスは言われます。その混乱、苦難をすべて受け入れなさい。なすすべのない自分を思いなさい。弱い、小さい自分たちを知りなさい。苦しみの中でも主の言葉を信じなさい。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。身を起こして頭をあげなさい。神様を見つめなさい。(ルカ21・20-33その時がっ来る。)

イザヤ書を読みます。 小さい、弱い私たちを思い巡らします。そして、神様に助けを求めます。  
「主よ、あなたはわたしたちの贖い主です。」この時の贖いは買い戻すという意味ではありません。親戚として責任を負うという意味だそうです。例えば、身内の誰かが土地を手放した。それを知った親戚はその土地を買い戻さなければならない。土地は嗣業の地、神様からの土地だからです。神様はわたしたちの贖い主。それほど深く神様はわたしたちとつながってくださっているのです。
しかし、わたしたちは罪の道を歩いています。あなたから離れてしまいました。あなたはそんなわたしたちにみ顔を隠されるのですか。
しかし、主よ、あなたはわたしたちの父。わたしたちは神様の嗣業の民です。わたしたちは神様のものです。わたしたちは粘土、あなたは陶工です。わたしたちは皆、あなたによって造られたのです。 ここで、わたしたちはわたしたちは神様の民なのだから罪を犯しても、赦してくれる、神様の愛はそれほど強いのだと勝手に思っているように思います。悔い改める。本心から悔い改めるのです。

イエスは弟子たちに言われました。「気をつけて、目を覚ましていなさい。」
その時が来る。弟子たちは、神殿が滅びる時が来る、そして、その時に終末が来ると思っていました。 目を覚ましていなさいと聞くと、ゲッセマネの出来事を思います。過越しの食事(最後の晩餐)が終わり、イエスは弟子たちとゲッセマネに行きました。そして、特にペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を連れて祈りのために園の中に入って行きます。イエスは祈ります。血の汗を流しながら祈ります。三人の弟子たちは寝ているのです。イエスは三度も注意します。目を覚ましていなさい。
目を覚ましていなさい。その時がいつなのか分からないからである。
目覚めるとは目を開けていることではないですね。心が座っていること、平静であることではないでしょうか。どのような事が起こってもすべて受けとめることが出来る。襲ってくる力のあまりの激しさにあたふたしないのです。

どのような事が起こっても、神様のみ心を忘れてはいけない。
天にしるしを行う。 大きな星が輝いている。
預言者が言う。 ユダの地、ベツレヘムよ、おまえから一人の頭が出て、わたしの民イスラエルを牧する。

目を覚ましています。イエス様を清い心で見ることが出来ますように。


戻る