「待降節第2主日」(B年)説教
2014年12月7日・加藤 英雄師


 

  BC588バビロン捕囚。南ユダの力ある者たち―支配階級、技術者、祭司―はバビロンに連行され、住むようにされた。わたしたちはバビロンに住んでいる。神様はわたしたちに何も語ってくれない。わたしたちの神様はバビロンの神に負けたのか。いや、そうではない。イスラエルは知ったのです。わたしたちが神様を捨ててしまったのだ。神様から離れてしまったのだ。神様から試練が与えられている。神様に戻ろう。神様に戻った時、神様はまた、わたしたちを包んでくれる。神様を呼び求めよう。神様から与えられた道を歩もう。わたしたちは厳しい心で神様を求めている。会堂に集い、祈る。典礼を行っている。神様を求める信仰生活を送っている。

そして、今、ついに神様の栄光が現れる。神様はわたしたちを包んでくださった。 神様は言われる。苦役の時は今や、満たされた。咎は償われた。 荒れ野に広い道が通され、谷、山、丘に道が出来る。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となる。この変貌は捕囚民のために神様が用意された。これは人が神様の恵みを知るため、神様が人に見えるものを与えたのである。主からの良い知らせを告げ知らせる者よ、声をあげよ。人々に神様の恵みを告げ知らせよ。主の言葉を信じる者、主から離れなかった者は主のもとに従う。その者たちは神の救いを告げ知らせる者となる。

イエスの時代、イスラエルはローマの植民地であった。イスラエルは独立すべきだ、独立闘争が頻繁に起こっている。この闘争は神様に向かって歩む戦い。小さな戦力であっても、神様はわたしたちを見捨てない。イスラエルの人々は暗い生活を送る。終末を思っている。人々は荒れ野で語るヨハネを見た。

マルコによる福音書を読みます。
わたしたちはイエスに出会った。イエスに神様を見た。わたしたちはナザレのイエスを神の子と宣言する。 「神の子イエス・キリストの福音の初め。」 
福音:神のみ心が福音です。いのちは神様から注がれた。いのちが注がれこの世に生まれる。いのちの尊さ、いのちの喜び。生き生きと生きる喜び。人は支え合い、互いに友として生きる。生きることは愛すること。神様とつながる。自然とつながる。人とつながる。 
神様は福音を見えるものとするため、イエスをこの世に送られた。イエスは福音の内に生きる。イエスの言葉、行いが福音となる。イエスの姿が福音。イエスによって福音が見えるものとなった。 

イザヤ書に福音の初めを見る。
神であるわたしは、あなたキリスト・イエスより先に使者ヨハネを遣わし、イエスあなたの道を準備させよう。使者ヨハネが荒れ野で叫ぶ。「主の道を整え、その道をまっすぐにせよ。」 ヨハネは主の道をまっすぐにしたい。ヨハネは言います。わたしより優れた方が後から来られる。その方が主の道を整え、その道をまっすぐになさいます。わたしは水で洗礼を授けるが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。
ヨハネは悔い改めの洗礼を授ける。あなたたちの信仰は眠っている。起きなさい。神様はあなたを見ている。悔い改めて神様への道を歩みなさい。 イエスは聖霊で洗礼を授ける。  
洗礼:水に沈む。水の中で死に、新しい命に生まれ変わる。 聖霊による洗礼:聖霊の中で死に、聖霊によって生きるものとなりなさい。

神様からの方イエスに出会いなさい。イエスに会いに行きなさい。イエスを知りなさい、イエスの中に入りなさい。その時、神様が見える。神様は律法の内にいるのではない。今、生きておられる。語っておられる。力を送っておられる。イエスの姿の内に入った時、神様が見える。いのちが見える。隣人が見える。聖霊で洗礼を受けるとはイエスの姿の内に入ることではないでしょうか。
今、わたしたちは問われています。目覚めていますか。わたしたちはこんなに大きな恵みを頂いている。イエスから与えられた道を歩んでいますか。


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