「主の降誕(夜半のミサ)」(B年)説教
2014年12月24日・加藤 英雄師


 

  ろばと牛の小屋から男の人が宿屋の主人に大きな声で声かけている。妻が子を生みそうです。手助けをください。主人は宿屋に泊っている人たちに大きな声をあげる。赤ちゃんが生まれそうだ。
助けてほしい。 婦人たちがすぐ集まった。夫は外で待つ。星を見ながら、祈りながら待つ。
おぎゃーと声がする。生まれた。生まれた赤ちゃんは布にくるまれて飼い葉桶のの中に寝ている。 

この社会は薄暗い闇の中を歩いているようだと皆そう思っている。社会の中で豊かに生きる―それが希望となっている。ある人は派遣社員だ。ある人は仕事を失った。物がたくさんある。物の面白さで、物の刺激で時を過ごす。 付き合いの中に、優しさが見えなくなってしまったのかな。おおらかさ、ゆとりがなくなってしまったのかな。 静かな、ゆったりとした時が去ってしまったのかな。
いや、わたしたちは天に青く広がる大空に囲まれてる。
イザヤ書は希望を語ります。物の豊かさの希望ではない。平和への希望、正義の希望、恵みの希望です。 光が輝いた。光がある。わたしたちは光を見た。光の中に深い喜び、大きな楽しみを見た。そして、見える希望。見える恵みが与えられた。ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。みどりごが力ある神、平和の君と唱えられる。

わたしたちの前に、一人の赤ちゃんが、布にくるまって飼い葉桶の中に眠っている。この子が神様ですよと教えられる。この子が神様、イエス・キリストです。神様の姿で生きるのです。この子が神様ですか。この子は赤ちゃんだから両親がいなければ、育って行かない。支えられなければ生きて行けない。命を失ってしまう。赤ちゃんが神様。すべてをその小さい手の中に握っておられる。
何も出来ない赤ちゃんが、時間を造られた方、空間を造られた方なのですか。よく分からない。
神様はわたしたちに何を求めておられるのですか。

神様がわたしたちに求めておられるのは、赤ちゃんがわたしたちに求めておられるのは、この姿を見つめなさいということではないでしょうか。見つめなさい。つながりなさい。つながって見える、分かる。 赤ちゃんをじっと見つめる。
①神様であるこの方がロバ、牛の小屋の中で生まれた。宮殿を拒否した。
②この方が生まれた。世界を変える出来事です。この大きな、大きな喜びをまず羊飼いに知らせた。羊飼いは指導性を求められない、教養を必要としない職業なのです。神様、王様は誰と共に歩こうとしておられるのでしょうか。
③赤ちゃんの瞳を見つめます。赤ちゃんの瞳は喜びに満たされた、美しい、きらきら光っている。この子の目を見るとわたしの心がきれいになってくる。つい、微笑んでしまう。この目は助けてくれてありがとう、愛されてありがとうと語っている。あぁ、愛するとは生きることだと、今、分かる。人を愛することは喜びだと知る。
自分は人を愛しているだろうか、人の手助けとなっているだろうかと思うのです。

神様は赤ちゃん。神様はわたしたちに「いのち」を見る目を持ちなさい言われているのではないでしょうか。  この赤ちゃんが青年になる時、この赤ちゃんが神様の力を持つ時、いや、それ以上、神様の姿で生きる時、わたしたちは本当の愛を知るようになる。「いのち」の尊さ、「いのち」の美しさを知るようになる。神様とつながる事が出来るようになる。

わたしたちが赤ちゃんの瞳を見ることが出来ますように。体が不自由で動けずにいる人の瞳を見ることが出来ますように。「いのち」を深く感じ、思い巡らすことが出来ますように。

神の子イエス様、お誕生日おめでとうございます。


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