「主の洗礼」(B年)説教
2015年1月11日・加藤 英雄師


 

  イエス様が洗礼を受けられた。イエス様は神様ではないのですか。
ええ、イエスは神の子としてお生まれになりました。「主の誕生」を祝い、「主の公現」を宣言します。主の公現:イエスご降誕の出来事はイスラエルの小さな村の出来事ではない、世界を変える出来事ですと宣言したのです。イエスはベツレヘムというだれも気にとめない小さい、小さい村で生まれました。しかし、イエスはすべての物を造られた方です。イエスは「いのち」の方。イエスはその手の中にすべてを持っておられる。その手の中に「いのち」を持っておられる。
イエスはすべての人のためにお生まれになったのです。イエスはイスラエルの王ではない。イスラエルの閉じ込められる王ではない。(第二バチカン公会議で言いました。キリスト教はヨーロッパの宗教ではない。)  天の父はイエスをすべての人のために人として、この世に遣わしたのです。

イエスは神のうちに生きておられる。その方が洗礼を受けたのですか。なぜだろう。昔はその理由を一生懸命考えました。 ある時、公園の話を聞きました。子供たちが公園で遊んでいる。走っていた小さい女の子が転んでしまった。立ち上がらない。ずっと立ち上がらない。すると少し大きい女の子が走って来て、横に寝転がるのです。しばらくして、大きな女の子は小さい女の子の顔を見てにこっとする。小さい子も大きな女の子の顔を見てにこっとする。大きな女の子は小さい女の子に言います。「一緒に起きようか。」「うん。」 二人は一緒に起き上がって、一緒に歩き始めたのです。 そこにイエスの思い、主の洗礼を見る。
しかし、今、わたしたちは思います。これが、小さいもの、弱いものとなられたイエスの姿なのではないでしょうか。洗礼者ヨハネのところに集まって来た人たちは、イエスも小さい、弱い青年だから我々と一緒に洗礼を受けに来たと思っています。 

イエスは洗礼によって何かを得ようとしたのではないのです。今の秘跡典礼によれば、洗礼によって①今までの罪はすべて赦される。②神の子供となる。③教会の一員となって、教会活動をする一人となる。④信徒として善い行いをする。祈る、聖書を読む。⑤神様から与えられた道、天の国への道を歩む。 そんなことを考えます。イエス様はすべて持っておられる。

洗礼は新しい人生の出発です。イエスは人として、小さいものとして、弱いものとして歩む姿、みんなと一緒に歩む姿なのです。水によって力を得て、生きる。出発の時とする。ヨハネのところの集まった人たちと一緒に、神様の祝福を味わったのです。洗礼による出発、これは善い事ではないですかとイエスはヨハネに言われました。(マタイ3・15)

神が人となられた。それも何も出来ない赤ちゃんとなってこの世に来られた。青年イエスは洗礼を受けられた。一つ一つが不思議な出来事です。不思議な出来事の中で神様に出会います。 神様のみ心は何かもう一度考えたいのです。

神様が人となられた。[佐久間神父さんの訳されたABC 放送の「或るクリスマスの出来事」を話します。]  赤ちゃんとして来られた。赤ちゃんは何も出来ない。お母さん、お父さんが世話をして赤ちゃんが食べます、寝ます。お父さん、お母さんがいなければ赤ちゃんは生きて行けない。赤ちゃんは宝物。赤ちゃんの笑顔を見るとだれでも笑いたくなる。何も出来ない赤ちゃんは一番大切な「いのち」。世話をしたくなる。お乳をあげろよ。おしめが湿っているよ。心配したくなる。 何も出来ない一番大切なものが助けを求めている。世話をする、当たり前じゃないか。働く、愛する者が生きてほしいから働くのです。隣人が生きるのために働きなさい。それが愛です。

弱い者に出会ったら、食べる物がない人に出会ったら、見えない、聞こえない、歩けない、手が利かない人に出会ったら、悲しんでいる人に出会ったら、苦しんでいる人に出会ったら一緒にいてあげたい、それがイエスの思いではないかと思うのです。見えない、聞こえない、歩けない、手が利かない、だからわたしは弱い者、小さい者です。そうではない。見えないから苦しい、聞こえないから苦しい、歩けない、手が利かないから苦しいと思っている、だからあなたは小さいのではないですか、弱いのではないですか。

今日イエスの洗礼を祝います。 そして、同時に、神様が人となられた、赤ちゃんとして来られたことを考えました。
わたしたちは信仰の道を歩んでいます。問われます。
あなたに愛する人がいますか。


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