「年間第3主日」(B年)説教
2015年1月25日・加藤 英雄師


 

   わたしたちは今日、神様との出会い、イエスとの出会いを思い巡らしたいと思います。
イスラエルにヨナという青年がいた。主が声をかけられた。アッシリアの都ニネベに行き、町に向かって叫びなさい。あなたたちの悪がわたしの前に届いていると。ニネベは驚いた。アッシリアは異邦人の国。強大な国。ヨナは神様から身を隠そうとした。ヨナは逃げた。その間いろいろな出来事がありました。そして、ヨナは知ったのです。わたしは神様の内にいる。逃げることはできない。身を隠すことは出来ない。再びヨナは主の言葉を聞いた。起き上がりなさい。立ち上がりなさい。大いなる都に行って、わたしがお前に語る言葉を告げなさい。お前も呼びかける者となりなさい。

主がわたしたちに語られる。あなたは、わたしは神様に呼びかけられているのです。神様の言葉を、心を受け取ります。そして、あなたも呼びかける者となりなさいと言われるのです。

ニネベは悪に満ちた大きな都。神様はこの大きな都に回心を求めているのです。(たとえば、新宿、渋谷、原宿、池袋が悪に満ちた所であればあるほど、その快楽に寄らないで、そこから逃げる以上にそのために祈りなさい等、神様は回心のために働きなさいと求めているように思うのです。)一回りするのに三日かかった。距離ではないと思います。語り歩く困難さではないでしょうか。ヨナは叫びながら歩いた。人々はヨナの叫びを聞いた。そして、一日目が終わるころ、神を信じた。回心した。ニネベの人たちは断食をする、粗布をまとう。神様はこれをご覧になり、思い直されて宣言した災いをくだすのをやめた。 ヨナはニネベがそんなに簡単に回心するのを快く思わなかった。神様があんな簡単にニネベを赦すのを快く思わなかった。

イスラエルの頑なな信仰と異邦人の柔軟な心が語られているのです。イスラエルのヨナの頑なな信仰。しかし、ヨナは神様の強引な力にニネベは降参し、神様に従うようになったのではないか。

主は言われているのです。素直に神様の言葉を聞きなさい。受け入れなさい。学びなさい。自分を捨てなさい。

神様を受け入れる自由。欲を節制する、自由はむしろ節制を受ける自由ではないですか。自由とは隣人を受け入れる力、一緒に苦しむ、悲しみを受け取る力ではないでしょうか。自由だから神様を知ることが出来るのです。与ええることが出来る自由、他人のために働く事が出来る自由。頑なな信仰、自分だけを見つめる信仰は自由ではないと思うのです。

イエスと出会う。いや、弟子たちはイエスの中に働く力と出会ったのです。わたしたちはイエスの名によってイエスを見ている。イエスだから、イエスは神様だから受け取る。そうではない。思いやり、憐れみ、命を見つめている姿がそこにあるから、その出来事を受け入れるのです。その出来事のすべてが神様のみ心なのです。その方の深み、受け取ることの難しいほど大きな姿を見るのです。

イエスはガリラヤの湖のほとりを歩いておられる。あぁ、そうかとまた思います。わたしたちは、湖、海は社会、魚は人々、そして舟は教会とたとえます。イエスは、教会は社会から離れて呼びかけることはないと思うのです。祈ること、聖書を読むが生活から離れてはいけないのです。

シモン、アンデレが網を打っている。イエスはその仕事の中に入って行かれる。イエスはシモン、アンデレを見つめる。シモン、アンデレもイエスを見つめる。わたしについて来なさい。あなたたちを人間を捕る漁師にしよう。(エレミヤ16・14~)イエスの姿がシモン、アンデレの心に響いた。イエスの言葉がシモンアンデレの心に響いた。二人は網を捨て、イエスに従った。シモンとアンデレは生活を捨てたのです。今の生活を捨てた。生活からイエスを見たのではない。イエスの姿、言葉から生活を見たのです。 ヤコブ、ヨハネの兄弟が舟の中で網の手入れをしていた。イエスは二人に声をかけた。二人を呼ばれた。わたしに従いなさい。ヤコブ、ヨハネは家を捨てた、父を捨てた。家を捨てなければ家が見えない、父を捨てなければ父が見えない。

時が満ちた。終末が来ている。人々にとって終末とはすべてが裁かれる時。自然が壊れ、戦争が起こり、父と子、母と子、家庭が分裂する、自分の生活が問われる時。そして、神の国が来る時。

イエスは言われる。神の国は今ここに、わたしたちの目の前に来ている。悔い改めて福音を信じなさい。神の国は文字による律法の完成ではない。神の言葉によって、神の国への道が導かれるのである。福音が律法、神のみ心である。

今日は神様との出会い、イエスとの出会いを思い巡らしました。わたしたちはイエスの弟子です。ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネに続く道を歩みたいと思います。


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