「年間第4主日」(B年)説教
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15年2月1日・加藤 英雄師

 

[申命記18・15‐20]  主はイスラエルの民に火の中から語られる。民は主に願います。あなたの御言葉はあなたが選んだ預言者に語ってください。主はモーセに続く預言者を立てられる。あなたたちはこの預言者に聞き従わなければならない。あなたたちは主が命じられたことを忠実に行い、右にも左にもそれてはならない。あなたたちの神の命じられた道をひたすら歩みなさい。(申5・23~)聞き従わない者があれば、その者は神様からの問いに答えなければならない。預言者は主のみ名によって語る。
主のみことばを語る。自分の思い、また、他の神々のみ名によって語るならば、その預言者は死なねばならない。

[Ⅰコリント7・32‐35]
 主のみことばはわたしたちの生活を束縛するものになるのですか。律法はわたしたちを縛るのですかと問います。 わたしたちの生活は主を喜ばせることです。主に向かって心を開き、主の求めることを行います。 独身の男は主のために心を一つにして働きますが、結婚している男は妻、子供のため気を遣います。良い夫でありたい、良い親でありたい。心が二つに分かれてしまうのではないですか。独身の女は体も霊も神様のために働きます。神様のものになるのです。結婚している女は夫のために働く、子供のために働く。良い妻でありたい、良いお母さんでありたい。
そうでしょうか。夫、妻、共に一緒に祈る時、祈る場を持てたらいい。二人で、家庭で神様を語るのです。主のみ心は夫、妻が一緒になってわたしを思ってほしいのです。家庭で神様に感謝する、神様に向かって働くのです。一緒に働くのです。

[マルコ1・21-28」
 安息日、カファルナウムでイエスは会堂に入られた。安息日、会堂では祈り、聖書朗読そして説教があります。イエスは神様を語りました。神様の憐み、慈しみ、神様から与えられた命、いのちの喜びを語られた。イエスの口から神様の姿が語られる。神様のみ心が語られる。人々はその話に驚いた。静かな、力強い、心を包むような教えに驚いたのです。律法学者のようではない。神様から権威ある者として語るのです。イエスのことばが会堂に満ちた。すると、この会堂に汚れた霊に取り付かれている男が叫んだ。
「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」かまわないでくれ、ほっといてくれ。お前は我々とどんなつながりがあるというのか。つながりたくないと叫んでいるのです。反抗期の子供が親に向かっていう言葉のようです。つながったら滅ぼされてしまう。この汚れた霊はイエスの名を叫ぶ。先に相手の名を叫んだものが相手を制すという考えがあったのです。 「黙れ、この人から出て行け。」 汚れた霊は出て行った。 弟子たちはこの出来事を目の前で見た。イエスは神様を語る。心から体から神様の思いが語られる。イエスの声が、ことばが弟子たちの心に響く。
弟子たちは知ったのです。イエスの中に入って行くと神の国が見える。話を聞いていると、心の中に喜びが生まれてくる。慰めが与えられる。律法から離れてしまった者に、新しい出発があるよ、戻っておいでと手が差し伸べられる。 イエスは律法という家に入り、律法の家を壊すのです。神様の心、言葉である律法を人は律法の家を造り、神様の心、言葉を家の中に閉じ込めてしまった。
イエスは家を壊す。神様の心によって壊す。イエスが示された権威は、神様の思い、心です。言葉によって業によって神様の憐み、慈しみ、愛が流れ出ているのです。


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