「年間第5主日」(B年)説教
2015年2月8日・加藤 英雄師


 

  安息日、カファルナウムの会堂でイエスは人々と祈ります。聖書を朗読します。そして説教をしました。イエスは神様を語ります。神様は父さんです。父が、神様がわたしたちに「いのち」を与えてくださったのです。わたしたちは父によって生きているのです。父さんはわたしたち一人一人を見つめておられる。わたしたち一人一人に声をかけられておられる。わたしたちが生きる。それが父さん、神様の喜びです。わたしたちは神様に包まれている。神様の憐み、慈しみに包まれている。 わたしたちは神様に愛されています。神様の愛を感謝しながら、わたしたちは神様に祈ります。ささげものをします。神様に喜ばれるささげものをしたい。神様は典礼による壮大な生け贄を喜ばれません。力ある王は壮大なささげものをしました。羊を何十頭、牛を何十頭、焼き尽くす生け贄、贖罪の生け贄としてささげたようです。その大きな生け贄のどこにあなたはいるのですか。神様の求める神様へのささげものは、神様への心の喜び、み名をたたえる心ではないでしょうか。いや、それ以上に神様はわたしたち自身、あなた自身を求めておられるのです。あなたが生け贄となりなさい。イエスは神様を語り、信仰の道を語るのです。

人々は会堂でイエスの姿を見ました。イエスの語る言葉に神様を知ったのです。神様は生きておられる。今、過ごしているこの生活の中に神様はおられる。

イエスは会堂を出ました。そしてシモンとアンデレの家に行きます。シモンのしゅうとめが熱を出して寝ている、癒してほしいと人々が頼んだのです。イエスはにこっと笑ったと思います。シモンのしゅうとめは風邪をこじらせて熱を出したのかも知れません。風邪で苦しんでいる。イエスはシモンのしゅうとめのそばに行き、手を取って起こされました。神様の力を持っている預言者が小さい病気の婦人のところへ行かれ、手を差し伸べたのです。彼女の熱は去り、癒されました。シモンのしゅうとめは喜んだ。早速食卓を用意し、もてなしました。 夕方になり、安息日は終わりました。 病人や、悪霊に取り付かれている人を連れて町中の人たちがイエスのところに集まりました。イエスは病人の一人一人と向かい合い、病を癒されました。悪霊を追い出されました。

翌日、朝早くまだ暗いうちに、イエスは人里離れた所に出て行き、そこで祈っておられた。

シモンとその仲間たちはイエスを捜した。やっと見つけた。イエスに声をかけます。 「みんなが捜しています。」 
「わたしは会堂で、また町で神様を語るために来たのですよ。近くの町や村に行こう。そこでも宣教をする。」

人々は神様の内におられるイエスに出会った。イエスの話に感動した。シモンのしゅうとめの病を癒した。人々は自分たちの家に帰りるために去って行った。そして、日が沈むと、人々はイエスのところに集まったのです。安息日が終わって、病を癒してもらうために、集まったのです。安息日に病を癒してもらうことは律法にかなっていない。人々は安息日を避けたのです。
イエスは病を癒す預言者になってしまった。  先生、イエス様、みんながあなたを探しています。わたしたちの心を癒してください。体を癒してください。

あなたのささげものは何ですか。神様はこんなに与えておられる。また、癒しが与えられた。まだ神様に求めているのですか。与える者になりなさい。神様と出会った喜びを語る者となる。癒されて新しく出発することが出来た、その喜びを語る者となる。

わたしたちの命は風にすぎない。知らぬうちに過ぎ去ってしまう。そんなことを思ってしまう。いや、そうではない。風は神様の息吹ではないですか。神様から注がれた命です。神様を見つめます。神様に耳を傾けます。神様からの愛に応えます。与える者になります。
第一朗読・ヨブ記を読みました。 この世は戦場だと言います。戦う場だ。わたしたちは兵隊だ。
この世は戦場と聞いて、今のこの世のことを言っているのではないかと思ったのです。安らぎがないなー、静けさがほっておかれている。ゆったりとした思いが受け入れられない。優しさがにじみ出る者となっていない。笑顔がない。兵隊だから主人の思いのままに生きる。神様の報酬は何だと問うと、空しく過ぎる月日と労苦の夜だけだというのです。夜は明日への準備の時、苛立ち飽き飽きして過ごす。時はすばやく過ぎて行く。わたしの人生は、何の望みもなく、過ぎ去って行く。
この思いは、今のわたしたちの生活ではないですか。 
わたしたちは、今日の福音の人々はイエスと出会った。人々はイエスに求めた。心を癒してください、体を癒してください。そうではない。イエスは言われているのです。あなたは与える者になりませんか。月日が与えられている。夜が与えられている。心が与えられている。体が与えられている。感謝の時を持ちなさい。与えてくれた方の心を思いなさい。

パウロは言います。人は正しい者でなければならない。正しい、それは律法を守ることだ。兵隊であっても正しく生きなさい、律法を守りなさい。正しくない者は捕えて牢に入れる。兵隊は与えられて生きていることを知りません。主人からではなく、神様から与えられている事を知りません。神様を知る喜びを知りません。パウロは言います。祈らない、それはあなたのせいだ。聖書を知らない、感謝しない、神様の言葉を聞こうとしない、あなたのせいではないか。パウロは一心に、純粋に正しさを求めた。ある時、パウロは天におられるイエスから声をかけられた。あなたの正しさはわたしの正しさではない。あなたは律法によってわたしを迫害している。わたしは律法の内にいない。律法はわたしの心、わたしの心を顧みない律法はない。あなたはわたしを律法に閉じ込めている。
わたしの心を告げ知らせなさい。わたしの姿を語りなさい。

パウロは言います。わたしがこれを知った時、神様と出会うことが信仰だと思ったのです。イエスのことば、業、思い、イエスの姿、イエスのすべて受け入れる。生きる喜びが生まれる。生きる意味を知る。いのちを知る。それが福音。わたしは福音を告げ知らせなければならない。それがわたしに与えられた使命です。

わたしは誰に対しても自由なものですが、だれとでもつながれるように皆の奴隷となります。奴隷とはその人のために働く者です。その人の前で自由はありません。自由人でありながら自由がない。いや、自由人だから奴隷になれるのです。その人のために働く者になれるのです。自由とはどんな人とでもつながりが持てることです。

福音とは自然の力を感謝すること、人の命を感謝すること。与えられた神様を感謝することです。福音とは人が生きることです。喜んで生きることです。人が生きるために働くことです。

福音書を読みました。ヨブ記を読みました。そしてパウロの姿を思い巡らしました。
あなたは今どこにいますか。何を求めていますか。何をしようとしていますか。
そして、神様はあなたに何を求めていますか。
イエスを見つめて、歩きます。信仰の道を歩みます。


戻る