「年間第6主日)」(B年)説教
2015年2月15日・加藤 英雄師


 

  主なる神はアダムを呼ばれた。アダム、どこにいるのか。あなたから離れ、ここにいます。わたしは裸です。お前が裸だとだれが告げたのか。食べるなと命じた木から食べたのか。
 裸である:あなたは何も持っていないよ。あなたにはこれが欠けている。これに不自由している。あなたは善い人ではない。 あなたが裸であると告げる人は、その人の欠点だけを語るのである。裸であることが恥ずかしいと思わせるのである。物を知る。何のために知るのですか。自分の無知を隠すために知るのですか。
アダムは言う。共にいてくださるようにしてくださった女が木から取って、与えてくれたので食べました。 主なる神は女に向かって言う。何ということをしてくれたのか。女は答える。蛇がだましたのです。主なる神は蛇に向かって言う。賢い蛇よ。お前は物を知らない者を誘惑するために賢いのか。何のために物を知っているのか。真理に向かって歩むために物を知るのではないか。お前は呪われる者となった。そのような賢さを捨てなさい。主なる神は女に言う。お前は苦しんで子を生む。知識で子を生むのではない。知識で新しいものを造りだすのではない。心と体で子を生むのである。それを知りなさい。主なる神は男に言う。お前はわたしの声に従わず、女の声に従った。お前は生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前は顔に汗を流してパンを得る。お前はそこから取られた土に帰る。塵にすぎないお前は塵に帰る。

重い皮膚病を患っている人がイエスのところに来た。重い皮膚病の人は皆と一緒の社会に住むことが出来ない。隔離されてしまう。隔離された場所でイエスの話を聞く。神様の心を語る方。生きる喜びを語る方。そして、神様の業を行う方。病を癒す、悪霊を追い出す、死んだ人が生き返ったという。その方に会いに行こう。重い皮膚病を患っている人は町に出る時、わたしは汚れている者です。汚れている者ですと呼ばわって歩かなければいけない。(レビ13・45、民数記5・7~)その人はイエスを見つけた。イエスのところに来てひざまずいて願う。あなたが望まれるなら、わたしを清くすることがお出来になります。イエスはその人を見た。体を見た。それ以上に心を見た。わたしを汚れから解放してください。イエスはその人の、その思いに心が、体が動かされた。手を伸ばし、その人に触れた。よろしい。清くなれ。その時、たちまちその人の重い皮膚病は去った。体が癒された。心が癒された。イエスは厳しく注意して言われた。誰にも何も話さないように気をつけなさい。この出来事は神様のみ心です。あなたは清さを求めていた。清さを願っていた。神様はあなたを見られたのです。神様のみ心のうちに生活する者となりなさい。祈りなさい。神様に心の耳を傾けなさい。社会に戻る。人を支える者となりなさい。 しかし、この人はこの出来事を人に告げ、言い広め始めた。

創世記とマルコによる福音書を読みました。
アダムは裸です。重い皮膚病を患っている人も裸だったのです。お前は何も出来ない者だ。社会の中で、人々と一緒に住めない。社会に貢献できない。裸である寂しさ。悔しさを思い知る。汚れていると言われる苦しさ、悲しさが心に痛い。神様に出会った。イエスに出会った。いや、神様を呼び求めた。イエスを呼び求めた。慈しみに包まれた。生きるものとなりなさい。塵にいのちが注がれた。

その男は癒され、清められたその感動に舞い上がってしまった。ちょっと残念だったのは、イエスの厳しい注意が聞こえなかった。その男は人々にイエスのすばらしい癒しの力を語ったのです。イエスの求めることは一つ。生きる者になる。隣人を愛する者になる。

アダムが神様に出会ったのです。


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