「四旬節第3主日)」(B年)説教
2015年3月8日・加藤 英雄師


 

  第一朗読・出エジプト記を読みます。 イスラエルがエジプトの国を出て三か月、シナイ山の荒れ野に到着しました。神様はモーセをシナイ山の山頂に呼び出されました。
モーセはシナイ山の山頂で40日40夜、主の前にひれ伏し、断食しました。
その時、主が語られました。 「わたしは主、あなたの神。あなたをエジプト国、奴隷の家から導き出した神である。」 神様はすべてのもの、見えるもの、見えないものを造られた方です。時間、空間の中に造られた。物を超えておられる、時間と空間を超えておられる。神様が人を造られた。神様は遠く、遠く、はるかに遠く、世界、宇宙の外におられる。その神様がわたしは主と言われる。神様はわたしたちの中におられる。人は人の中に生きる喜びの命、神様の命を見る。わたしたちは神様の愛によって造られた。わたしたちが生き生きと生きていることが神様の喜び。生きている。
神様の愛のうちにいる。  神様がわたしたちの主。主は主人です。主人のもとにいる。主人の言うことを聞くのです。 わたしたちは神様を外在の神、内在の神という表現をします。

「わたしはあなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」
あなたは何ものであっても奴隷になってはならない。今、わたしたちに言われています。あなたは何に囚われていますか。しなければいけない事がたくさんある。囚われている枠の中に、しなければならないという枠の中にいる。何の奴隷になっているのですか。自由になりなさい。わたしによって自由になりなさい。自由とは生きている喜びです。自分が生きている。それ以上に生きているものがすべて生きている。それを喜ぶことが出来る。それが自由です。自分が生き生きと生きることが出来る。それは支えられているから。そして、支える者になる。隣人が生きるために自分が生きるのです。
十戒の始めに神様は言われます。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」
神様は人が生きることを求めておられる。愛それは生きること。支え、支えられて生きる。そのほかのことは神様のみ心ではない。神様は愛です。

思い出してほしい。イエスは言われます。「友のためにいのちを捨てること。これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15・13)  過越し祭が近づいた。イエスと弟子たちはエルサレムに向かいます。神殿に着いた。神殿の境内を見ています。牛や羊、鳩を売る店が立ち並んでいる。両替の店がある。イエスの心がうずきます。イエスは言います。わたしは父の家に来た。わたしの父の家は祈りの場ではないのか。心が清められる場、静けさを大切にする場、厳粛さを大切にする場ではないのか。これは父を求めている人たちの賑わいなのか。 「わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
神殿は神様との出会いの場です。生きている神様と出会うのです。
イエスは縄で鞭を作り、牛、羊をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし台を倒した。ユダヤ人たちは驚いた。あなたがこのような事をするとはどんな権威によるものなのか。そのしるしを見せてほしい。イエスは言われました。この神殿を壊しなさい。本物の神殿を三日で建て直してみせる。  神殿を壊す。人の垢のこびりついた神殿を壊す。律法の書を拝み、律法に生け贄をささげる神殿を壊す。あなた方がこの神殿を壊せたなら、その時、新しい時が始まる。新しい神殿を見ることになる。 弟子たちはただこの出来事見ていた。弟子たちもこの神殿と共にいたのです。イエスはわたしたちに言われているのです。あなたの神殿を壊しなさい。あなた自身を壊しなさい。

弟子たちは、弟子たちの目の前で起こった生きた神様の業を見たのです。三日目に建てられた新しい神殿が何であるかを知った。神殿は律法であった。律法が神殿であった。生きている神様の姿、それが律法ではないか。神殿は働かれる神様のみ心。

神様と出会いなさい。神様への道を歩みなさい。今も、働いておられる神様がわたしたち一人一人に声をかけられている。モーセの道はイエスによって歩き続けられているのです。


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