「受難の主日(枝の主日)」(B年)説教
2015年3月29日・加藤 英雄師


 

  イエスと弟子たちは最後となる晩餐を共に祝いました。イエスはゲッセマネで血の汗を流しながら祈りました。ついにイエスは捕えられ、大祭司の館に連れて行かれました。そこに最高法院の者たちが集まっていました。イエスは尋問に答えられます。「お前はほむべき方の子、メシアなのか。」「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれてくるのを見る。」「諸君は冒涜の言葉を聞いた。どう考えるか。」一同は死刑にすべきだと決議する。死刑にしたい。しかし、今日の聖書と典礼にありますが、死刑はローマ総督の同意なしには行えないのです。イエスをローマ総督ピラトのもとに連れて行きます。イエスの問題は、宗教にかかわるイスラエル国内の問題ではないか。ピラトは、最高法院がイエスを引き渡したのはねたみのためだと思っていた。その問題にイエスを死刑に処すことは出来ない。いえ、イエスはユダヤを支配すると言っています。

わたしたちはイエスの出来事の大きさに驚いている指導者たちを思い起こします。 大祭司の館でカイアファは言ったのです。あなた方は何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで住む方が、あたがたに好都合だと考えないのか。(ヨハネ11・49-50)

ピラトはイエスに問います。「お前がユダヤ人の王なのか。」
わたしは神のみ心のうちに歩んでいる。神が王だと言えばわたしは神の内にある王です。それはあなたが思う王ではない。わたしは信仰者として、預言者として、とがめられているのか。わたしがユダヤを支配する王と語ったと言うのか、王となるために動いたというのか。
お前はローマに反逆する者として捕らわれているのだ。 わたしは王、人の命を奪う王ではなく、人に命を与える王です。

ピラトは群衆に問う。ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか。群衆は叫んだのです。「十字架につけろ。」「十字架に付けろ、十字架に付けろ。」

ピラトはイエスを兵士たちに渡した。

イエスは鞭で打たれた。紫の衣も着せられ、茨の冠を頭にかぶせられた。葦の棒で頭を叩かれ、唾を吐きかけられて、十字架につけるため、衣を剥ぎ取られた。
イエスは何もない者として十字架につけられた。他人は救ったのに、自分は救えない。
イエスは全く力のない者であった。人々はイエスを罵った。

イエスは息を引き取られた。その時、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。 至聖所の入り口にある幕が裂けた。至聖所は神様がおられるところです。ここは、年に一度、贖罪日の行事を行うために、大祭司のみが入ることが許される聖なる場所です。

今日わたしたちは「主の受難」と一緒に「枝の主日」を祝っています。枝の主日は、イエスのエルサレム入城を祝う日です。エルサレムで神様のみ心が行われる。イエスは神様のみ心を行うためにエルサレムに入ったのです。ロバが用意されている。ロバに乗って、神様のみ心のうちにエルサレムに入る。弟子たちは喜んだ。その日が来た。栄光の日が来た。一緒にいた人々、周りにいた人々も喜んだ。多くの人々がイエスのエルサレムへの出発に心をときめかした。ロバに自分の衣をかける。道に衣を敷き、野原からの葉のついた枝を敷いた。イエスは喜びの歌声の中を、神様への賛美の歌声の中を、ロバに乗ってエルサレムに向かったのでした。

枝の道の喜びを見つめます。解放される。神様によって解放される喜びです。また、受難の奥を見つめます。ヤコブとヨハネがイエスに言いました。エルサレムに入ったら、その時、わたしたちをあなたの右そして左に座らせてください。イエスは言います。あなたたちはエルサレムで起こる出来事をその時、受け取ることが出来ない。わたしはそこで洗礼を受ける。あなたがたも、まだ、洗礼を受けていないのである。(マルコ10・38-39)

今日、わたしたちは枝の主日の出来事そして主の受難の出来事を受け取ります。
わたしたちが今、何を求め、何を見つめているか、思い巡らしてゆきたいと思います。


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