「復活節第6主日」(B年)説教
2015年5月10日・加藤 英雄師


 

  「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、……」

わたしたちは神様の愛、イエスの愛に包まれている。愛とは何ですか、愛を見つめて行きたいと思います。  父はイエスを人の世に送られました。わたしの子が人を救う。父がイエスに言われます。わたしは人をこの上なく愛しています。あなたも人の世に住み、わたしのように人を愛しなさい。

イエスは言われます。わたしも人を愛します。わたしは主、主であるからこそあなたがたのために働くのです。 イエスは毎日、町に出て行かれました。人と出会いました。人の心に耳を傾けました。悲しみを聞きました。苦しみを聞きました。神様から離れてしまっている苦しみ、悲しみを聞きました。病を癒されました。悪霊を追い出しました。死んだ人にまた、命を与えられました。イエスは日々、人のために働かれました。人のために聞く者となりました。癒す者となりました。イエスに出会った人たちは慰めをもらいました。と同時に慰めを越える力をもらいました。温かさをもらいました。赦されている平安をもらいました。人々にとって、イエスは平原に立つ大木になったのです。
イエスの毎日の生活が人々への愛の生活だったのです。

イエスの愛はもっと、もっと大きい。天の父はイエスに命をかける愛を求めました。 過越しの食事が終わり、イエスはゲッセマネの園に行き、祈りの時を過ごします。ゲッセマネの園で父はイエスに声をかけられました。わたしは、今、この時、あなたに洗礼を授ける。その時に、すべての人の罪が清められる。人は原罪から解放される。わたしの与える杯を飲み干しなさい。重い、重い杯を飲む。イエスはひざまずいて祈られる。父よ、み心ならば、その杯をわたしから取りのけてください。イエスは苦しみ悶え、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。父はイエスに言われます。お前はわたしの子、わたしの心を受け取ってほしい。わたしの思いの通り行いなさい。わたしは、イエス、あなたの内にわたしの栄光を示す。わたしが与える杯を飲みなさい。(ルカ22・39~) 「いのち」をかけて人を愛するのです。
イエスがわたしたちに与えられた愛は:神様を離れてしまった人たちを、再び、神様のものとする。罪の世界にいる人たちを神様の世界に連れ戻されたのです。わたしたちを買い戻すために代金がイエスの「いのち」でした。 イエスは、夜通しヘロデの屋敷、総督ピラトの館に引いて行かれ、尋問された。総督ピラトによって死刑の宣告を受けた。兵士たちはイエスを囲み、棒で頭を叩き、唾を吐きかけ、侮辱した。そして、倒れてしまうほど鞭で打った。イエスは十字架を背負ってゴルゴタへの道を歩いた。午前9時にイエスは十字架につけられ、午後3時ごろ世を去られた。

イエスの出来事すべてがわたしたちへの愛でした。

イエスは語ります。わたしのあなたたちへの愛を見つめてほしい。わたしの愛にとどまりなさい。わたしは父の掟を守りました。父に従順でした。わたしは父のいのちの内にいる。父との一致を喜んでいます。あなたがたもわたしの掟を守りなさい。わたしの掟:互いに愛し合いなさい。
友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
自分の親しい人のために自分のいのちを捨てる。これ以上に大きな愛はないと言われました。友のために、わたしたちはここでイエスを誤解してしまいます、友はいつも一緒にいる友人でしょうか。「善きサマリア人のたとえ」を思い起こしてほしいと思います。隣人と出会いなさい。隣人を自分の友としなさい。隣人は生きるために助けを求めている。自分の家に閉じこもっていては見えない。出て行きなさい。(施設がたくさんある。障害を持っている人がいる。心と体の不自由な人がいる。一人では生活できない人がたくさんいる。また、話を聞いてほしい人がたくさんいる。)
隣人のために働く。その人を友とする。隣人を友としてつながるのです。
出かけて行って実を結びなさい。愛は与えることです。いのちを喜ぶことです。皆が与える者になった時、皆が命を喜ぶことになった時、平和が生まれます。愛はいのちを喜ぶこと。
隣人を愛して生きる。それ以上に、自分は愛されて生きていることを、もう一度、深く思い巡らして行きたいと思います。


戻る