「年間第12主日」(B年)説教
2015年6月21日・加藤 英雄師


 

 第一朗読・ヨブ記で神様は言われます。 海は動いている。海は混乱のシンボル、海は原初の怪物。水が海となって力をふるう。海は扉を押してほとばしり、母の胎から溢れ出た、と書かれています。水はわたしたちにとって、いや、すべての植物、動物にとって生きるの必要な、大切なものです。 水が海の姿がになり、力を持った。 夕暮れ時、海を見つめると、海の力強さを感じます。すべてを飲み込んんでしまう大きさ、力がある。 扉を押してほとばしる。扉がある? 神様は力ある海に扉を造っておられたのですね。
ふと、「放蕩息子のたとえ」を思い起こしました。 弟は乱暴な、我儘な息子。弟は家にいると、自分は閉じ込められているんだと思ってしまう。自由になりたい。家はきちんとした、秩序ある世界。そんな扉が自分を閉じ込めている。弟はそこから飛び出す。弟の思い、行いはヨブ記の海です。海は乱暴な力、周りのものを飲み込んで壊してしまう。海は、弟が飛び出したように、(母の胎からと表現がありますので)子供が生まれるように、ほとばしり出る。 神様は言われます。そんな力がある、乱暴なものであっても、海はわたしのものです。海の密雲を着物とし、濃霧を産着としてまとわせなさい。 そして、海に言います。「ここまでは来てもよいが、これを越えてはならない高ぶる波をここでとどめよ」 神様は海である、ヨブに、弟に言っているのです。 神様に疑問を呈する。不幸を述べる。神様から与えられた苦難を、不満のうちに述べる。それはいい。しかし、越えてはならない線がある。それをわきまえなさい。 命を軽んじてはならない。神様を否定してはならない。信仰を汚してはならない。神様から命を注がれ、今、生きている。それを忘れてはならない。感謝を忘れてはならない。
イエスは言われます。向こう岸に渡ろう。向こう岸、わたしはこれを彼岸と読みたいのです。舟に乗って天の国に行こう。天の国は違づいた。その目の前にある天の国です。舟は教会。教会の思いのうちに、信仰のうちにイエス様と共に歩む。 舟は海を進む。海はこの世の社会。じっとしていては海の力が分からない。静かに社会生活を送っていては社会にうごめく力が分からない、見えない。力のあるものが、利益のために力を振るっている。すべてのものが競争相手。会社が、勤め人が時間を競走して動いている。利益のために走っている。弱いものが苦しんでいる。話し相手がいない。仲間がいない。海は、今は、越えてはならない線を越えて、凄まじく動いているように見える。

イエスと弟子たちが舟に乗って向こう岸に向かって漕ぎ出す。舟は海を清いものとする。舟が動く、舟が働く。清い力が働くのです。海は「いのち」の世界ではないか。清い水は魚を育てる。海草が育つ。しかし、今、海は舟を認めない。すぐに激しい突風が起こる、波が襲いかかる。舟は水浸しになってしまう。弟子たちは焦る。舟が沈没してしまう。イエスは艫の方で枕をして眠っておられる。先生、イエス様、起きてください。舟が沈没してしまいます。わたしたちがおぼれてもかまわないのですか。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。風はやんで凪になった。  イエスは言われた。なぜ、恐がるのか。まだ信仰がないのか。  わたしを信じなさい。恐がることはない。あなたたちを守る。 イエスは自然の無謀な力を抑えた。弟子たちはイエスに、混乱、無謀を抑える力があるのを知った。この方こそ平和、平安をもたらす力、命を生かす方。イエスを信じます。  どのような事が起ころうとも、イエスを信じます。
イエスは父を信じました。十字架の道を歩みました。これが父の求められた出来事だったのです。父を信じる。子が父を信じるということを、今、ここでいうのはおかしなことですが、イエスは、自分の死が愛に変わることを知ったのです。この苦しい、本当に苦しい受難年の刑罰が大きな意味を持つ出来事になる、父によって「自分の死」が「人々の新しいいのち」への出発になることを信じていたのです。
信じます。どんな出来事があろうとも、信じます。 しっかりと信仰の道を歩みます。


戻る