「年間第17主日」(B年)説教
2015年7月26日・加藤 英雄師


 

  イエスの舟は向こう岸に着いた。 わたしたちは人々が教会に集まると思っている。いや、教会である舟が、イエスが人々のところに行く。教会は人々に出会う拠点です。それを忘れてはいけない。教会が人を待っている、それはちょっと違うのではないかと思うのです。わたしたち一人一人が教会の心を持ったらいい。

  イエスが場所に着いた。群衆がイエスと弟子たちを求めて集まって来る。イエスには力がある。教会には力がある。病人が癒される。悪霊が追い出される。 イエスは山に登り、弟子たちとそこに座られた。大勢の群衆がイエスに向かって来る。イエスは群衆に、羊飼いのいない羊のような様(さま)を見るのです。
  イエスはフィリポに、この人たちに食べさせるのにはどこでパンを買えはいいのだろうかと問います。この問いはフィリポを試されたと書かれている。人が生きるとは、何を食べるのか、どんな心のパンを食べるのかとイエスはフィリポに問うているのではないかと思うのです。フィリポはイエスに答える。この人々のためには大量のパンが必要です。200万円分のパンを買っても足りないでしょう。アンデレが言う。ここに大麦のパン5つと魚2匹を持っている少年がいます。しかし、何の役にも立たないでしょう。 イエスはフィリポ、アンデレを見る、弟子たちを見る、そして群衆を見るのです。

イエスはパンをとって感謝の祈りをささげられる。魚も同じようになさる。このパンとぶどう酒は神様から頂いたもの。大地の恵みである。神様の恵みが、今、パンによって与えられている。この恵み、このパンは命の糧となる。 このパンと魚を欲しいだけ食べなさい。残ったパンの屑を集めなさい。
パンの屑はパンの裂かれたもの、欠片(かけら)という意味だそうです。(ご聖体を示す時、裂かれた体を示します。)欠片(かけら)をいらないと言ってはいけない。裂かれたものにも恵み見いだす。
残った欠片で、12の籠が一杯になった。
群衆は、人々は皆、満腹した。人々はここでイエスの力を見た。パンが増えた。イエスは人の世を豊かにする。この方こそ世に来られる預言者である。この世を造って行く王である。イスラエルはこの方によって導かれる。
  人々はイエスの祈りが見えなかった。見ようとしなかった。パンを増やすために祈ったのではない。パンに神様の力を求めたのです。このパンによって神様の憐みを受けることが出来ますように。このパンが人々の心の支えとなることが出来ますように。神様の不思議であるこのパンによって、心の力となる、命の力となることが出来ますように。

イエスは、人々が来て、わたしを王とするために連れて行こうとしているのを知り、一人でまた山に退かれた。
わたしは、人々がわたしを王とする以上に、わたしは王である。まことの王である。わたしはあなたがたを王とする王である。 そして言います。この世を造って行くのは王であるあなたがたではないですか。神様からのパンをいただいて生き、人々のために働く、王であるあなたがたではないですか。

羊は欠片です。羊が12籠-教会をいっぱいにしている。神様からのパンを食べる。一人一人が隣人のために働く王となる。  どこまでもイエスについて行きたいと思います。


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