「聖母の被昇天」(B年)説教
2015年8月15日・加藤 英雄師


 

   第一朗読・黙示録を読みました。
ヨハネに幻が与えられた。幻のままに見ます。天が動いている。天のまことがしるしを現された。
天のまこととは神様のみ心。神様の人へのまこと。
神様は神殿を開き、契約の箱がここにあると示された。
天が神様のみ心のまま動く。
人の世界を超える天の国で時間の世界が見えた。
ある婦人が太陽を身にまとっている。心を照らす光、心を温める温かさが婦人から注がれる。
頭に12の星の冠をかぶってる。12使徒の母であろうか。
婦人が身ごもっている。子を生む痛みと苦しみのため叫んでいる。
新しく生まれる子が、新しい命の子が、生まれ出る世界への挑戦となるのでしょう。
子は母の痛みと苦しみを通って来る。生む母が、父がこの子の過ごす生活の厳しさを知りながら、生きるその道の厳しさを知りながら生むのです。

  もう一つのしるしが現れた。火のように赤い大きな竜である。支配する力の竜。竜は婦人の前に立ちはだかり、子を生んだらその子を食べてしまおうとしていた。
婦人は子を生んだ。
子は神のもとへ、玉座に引き上げられ、婦人は荒れ野へ逃げ込んだ。
そこには神の用意された場所があった。今や、神のメシアの権威が現れた。
少女がナザレから出かけ山地のユダの町へ行った。2,3日かかる厳しい道です。急いで出かけた。会いたいという思いが強いのでしょう。少女マリアの心には、エリザベトに会って、神様からの出来事を一緒に祝いたいという思いがあった。
エリザベト、あなたも神様の道具として働く、わたしも神様の道具として働くのです。
マリアはザカリアの家に入って挨拶した。
挨拶:心と心がつながる。
喜びがつながる。お互い、神様の思いに包まれていることを喜び会います。
エリザベト、マリアのことを思いながら、演劇のことを思ってしまいました。(演劇にたとえたら失礼かもしれません。) 監督が役者を選ぶ。その人に役が与えられる。その人は台詞を覚える。動作を覚える。監督のまま、自分をなくして、役の人になりきる。自分をなくしたとき、その人の自由が現れる。よい演技が得られる。その俳優さんたちの努力は並大抵のものではありません。怒鳴られ、努力が無視され…監督が言う。それはわたしの思いではない、恥をかかされる。ついに、その演劇は完成を迎える。上演される。
  わたしたちは神様によって役を与えられているのではないでしょうか。その者になる。何も出来ないわたしにも、身分の低い、この主のはしためにも、主は目をとめてくださった。主のために働きます。主の憐みを深く深く心に留めます。1・51-54 イスラエルになりなさいと呼ばれています。
神様を忘れない。神様を求める。神様からの道を歩む。神様に従順である。

神様はマリア様を天に召された。
マリア様によってイエスが生まれた。
マリア様はイエスの道を歩む者。
イエスを知る者、イエスのうちに生きるものです。


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