「年間第22主日」(B年)説教
2015年8月30日・加藤 英雄師


 

  イエスは、律法によって判断すると、律法の判断で善い悪いを決めると、神様の御心が見えなくなってしまいますよと言われていると思うのです。
 この民は口先ではわたしを敬うが、
 その心はわたしから遠く離れている。
 人間の戒めを教えとしておしえ、
 むなしくわたしをあがめている。
昔の人たちが教えとしておしえているように、食事の前に手を洗いなさい。そんな問題が語られています。それ以上に第一朗読・申命記を読んで、律法を「いのち」のかかわる事として考えなさいと言われているように思ったのです。

イスラエルのエジプトからの脱出の旅です。毎日、荒れ野を歩く、それがイスラエルの人々の生活でした。主がこの道を導いておられる。今、イスラエルは奴隷の生活ではない。人として生活している。広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地に向かって歩いているのです。毎日歩く。 
 イスラエルの人たちに不満がたまります。この旅が希望の旅だというのか。どこに光が見えるのか。食べ物も、飲み物も十分にない。他の人たちの土地に入れば攻撃を受ける。 そんな中、モーセは言います。イスラエルよ、今、わたしが教える掟と法を守りなさい。人々は言います。希望のない中、食べ物も飲み物もない中、掟を与えられても、法を守れと示されても、守ろうとする気は起らない。 モーセは言います。掟とは為すべきことをしなさい、してはいけないことをしないと心に留めるのです。法とは仲間を大切にすること、支え合うことです。イスラエルがこの旅の途中、心の正しいものとして歩むのです。掟、法を忠実に行う。これは主の命じられたことです。

イスラエルとは神に従う者たち、神に平安を求める者たちということではないですか。主に命じられたことを行わないというのは悪ではないですか。掟、法など全く考えたくないなどと、そんなことは言ってははいけない。

しかし、神様、待ってください。3か月も荒れ野を歩いているのです。荒れ野:木がない。花が咲いてない。水が流れていない。生きているものがないところを、毎日歩いているのです。心がだんだん暗くなってきます。安心がなくなって来ます。笑顔がなくなってきます。何を喜んだらいいのですか。こんなわたしたちに掟、法が与えられる。明日が見えないわたしたちが不平を言ってしまう。神様、これがそんなに悪い事なのですか。
 掟、法とは腹が空いていても、食べ物がなければ食べるなというのですか。
 体が水を求めても、水がない、飲むなというのですか。

神様が命じられたことだから守ろうよ。形だけでも守ろうよ。ここにはイスラエルが食べるための十分な食べ物がない。食べ物を持っている人は食べる。飲み水を持って行う人は飲む。食べ物、飲み物を持っていない人は、空腹だとしても、渇いていても仕方がない。掟、法を守れる人は守ればいい。 掟、法は神様からのもの。掟、法を守れる人は幸い。? 掟、法を守れる人は幸いですか。
掟、法を守れる人は言います。わたしたちは神様のみ旨に従って歩いています。食べようとして、飲もうとして盗んではいけない。

イエスはこの人たちに向かって怒るのです。あなたたちの思い、心は神様から離れている。神様のみ心、み旨は人のことを気にかける、思いやる事ではないですか。神様の律法は人と人のつながりを、ますます深くすることではないですか。

食べ物がない、空腹だ、皆に呼びかける。少しずつ集まる。この食べ物を一番必要としている人、苦しんでいる人にまずあげよう。誰か水を持っていないか。水が集まる。水を必要としている命にかかわる人に与えよう。食べ物が少しでもあれば嬉しい。飲み水が見つかれば嬉しい。何よりも弱い人、苦しんでいる人を心にかけてくれるのが一番嬉しいのではないですか。

食べて、飲んで生きる事が出来る。生きるいのちを喜ぶ事が出来る。今、生きている命を大切にする。それを忘れてはいけない。

掟、法を守りなさい。守るべきである。それが善。 イエスは言われます。その善が愛にならなければいけない。愛は人が生きること。一緒に生きることです。皆がほほ笑んで一緒に生きるために善い事をするのではないですか。 善い事は損をすることではないですか。与える者になることです。自分が自分に損をするよう勧めることです。支えるために働くことです。 これが神様から与えられた善い事です。

掟、法、律法は神様のみ心のうちに働く。生きるいのちのために働くものであるということを忘れてはいけないのです。


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