「年間第23主日」(B年)説教
2015年9月6日・加藤 英雄師

 

  第2朗読・ヤコブの手紙を読みます。
神様は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませるものになさったのではありませんか。 貧しい、能力がない、体が不自由である。わたしたちはそういう人たちを、その不自由さに弱い人と見てしまうのではないでしょうか。そういう人たちと言いましたが、わたしたち自身が持っている弱さです。しかし、神様はその人たちを選んで、特にみことばが語られているのです。その人たちが弱い人ではなく、強い人になるのです。
貧しい人は幸いである。その人たちは自分のものを持っていない。与えられるものを自分のためだけに使うのではなく、もっと困っている人に与えなさい。貧しさを大切にしなさい。
能力のない人は幸いである。能力ある人たちから与えられている事を知り、感謝しなさい。感謝する日々を送りなさい。能力ない人と思っている人、あなたは何が出来ますか。出来ることをしっかりしなさい。隣人のために働きなさい。力がない、頭が働かない。それなら、最も大切な事をする事が出来ます。祈りなさい。心を尽くして祈りなさい。
体の不自由な人は幸いである。不自由である。その不自由はなぜ与えられたのか。不自由である。何を求めるのか。この不自由は何かを考えるために、不自由が与えられたのです。
体は心を支えるものです。例えば、見えない:見るとは何か。何を見るのか。 聞こえない:何を聞くのか。何を聞きたいのか。
わたしは、心と体は一緒になって神様の道を歩く。それぞれ不自由なものを持っている。自分の中で支え合いながら一緒に歩いて行くのです。また、人と人の中で互いに支え合いながら生きて行くのです。
わたしたちの中に耳が聞こず、話すことが出来ない友がいる。イエスが来られた。いい知らせだ。イエスのところに連れて行こう。癒してもらおう。
イエス様、この友は耳が聞こえません、話すことが出来ません。神様の恵みを注いでください。手を置いてやってください。
イエスはその人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから、天を仰いで深く息を突き、その人に向かて、「エッファタ」と言われた。たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことが出来るようになった。
イエスは人々に、だれにもこの事を話してはいけないと口止めをされた。

この人に神様の大きな恵みが注がれた。この人が神様の憐みを語る者となる。神様の憐みを知ったのです。 聞こえる。自然の息吹を、生きるいのちの囁きを聞いている。人の喜びを聞く。人の悲しみを聞く、苦しみを聞く。 話すことが出来る。神様を語る。生きる喜びを語らう。そして、聴いている人の心に語りかけるのです。
イエスは言われるのです。耳で聞こえるようになったのではありません。舌のほつれが癒されたのではありません。聞こえない、話せない束縛から解放されたのです。自由になる。束縛を離れ心が自由になる。自然のいのちが聞こえる。息吹が聞こえる。人の心が聞こえる。語る。命を語る。愛を語る。神様を語るのです。

わたしたちは完全な者ではない。まだまだ不自由な心である。不自由な体である。 しかし、あなたが本当に、聞きたいものは何ですか。話したいことは何ですか。 不自由な人たちが住んでいる。この不自由な世界を大切にしたいと思います。



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