「年間第25主日」(B年)説教
2015年9月20日・加藤 英雄師


 

  知恵の書を読みます。ユダヤ人の社会は、皆神様を信じています。そう思っていました。
でも、あるユダヤ人たちは言います。信じていないとは言わないが、それ程熱心じゃないね。
(教会も同じようなところがあります。) ユダヤ人は復活を信じていない。死んだ人は消えてしまう。    神様にあまり心を留めない人たちは言います。力を尽くして、今を楽しむ。死んでしまったら何もかも終わりだ。金持ちになろう。人との煩わしさから解放されたい。金のある者、力の強い者になればいい。貧しい者になりなさいなどと誰が言うのか。わたしたちは自分の夢、自分の希望を実現させたい。自分の安心を求める。神をひたすら求める者は、いつも、わたしたちに律法を突きつける。わたしたちの平安を非難する。あなたたちは自分のことしか求めていない。あなたたちの平安は自分の平安ではないか。神様を心に留めている人たちはわたしたちに苦しめと言っている。苦しむのは自分のためでなく、今苦しんでいる人の苦しみを一緒に苦しむのだと言う。その人の苦しみを取り除くために、祈り、力を尽くす。苦しんでいる人の荷物を背負う苦しみだという。隣人と一緒に生きるために働くといっている。その道を歩くのが本当ならば、その人たちが喜んでいるか見てやろう。彼らが苦しみに寛容か、忍耐を持っているか、彼らを苦しめてやろう。もし、神の子となっているのなら、神が苦しみから解放してくれるだろう。 彼らの生涯の終わりがどうなるか見てやろう。神の力が彼らを救いに来るか見てやろう。
教会が苦しみを背負っていますか。教会を造っているわたしたちが苦しみを背負っていますか。苦しんでいる人たちを見ようとしていますか。祈っている、聖書を読んでいる。神様の恵みを感謝している。わたしたちはどのような社会を造ろうとしているのですか。勉強している。働いている。何のために勉強しているのですか、何のために働いているのですか。
イエスと弟子たちはエルサレムに向かって歩いている。今日イエスは受難予告の言葉を語ります。弟子たちはこの言葉が分からなかった。イエスの厳しい話し方に、怖くて尋ねられなかったと記されていますが、最初の受難予告の時の事を思い出してみます。
  イエスは弟子たちに聞きます。人々はわたしのことを何者だと言っているか。イエス様、あなたに預言者の姿を見ています。それではあなた方はわたしを何者だというのか。ペトロが答えます。あなたはメシア、神の子です。その時、イエスは受難予告をします。ペトロがそれを聞いて、イエスをたしなめます。先生、何をおっしゃるのですか。人の子は神の力のうちにある。そんなことは起こるはずがない。イエスは弟子たちを振り向きながらペトロに言われる。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人のことを思っている。」 わたしに従いたいものは自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい。福音のために命を失う者に、いのちが与えられる。たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の得があろうか。(マルコ8・27-)

一行はカファルナウムに来た。家に着いた。イエスは弟子たちに聞く。道の途中、何を語り合っていたのか。イエスにとってこの道はエルサレムに向かう道。受難に向かう道です。弟子たちは黙っていた。誰が一番偉いのかと議論していたのである。

イエスは座られました。弟子たちに神妙に語られたのです。あなたたちはこの世の出来事のうちに議論しているのか。わたしと共に歩いているのではないか。あなたたちはこの世に何を求めているのか。一番偉くなりたいものはすべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。
 イエスは子供の手を取って、彼らの真ん中に立たせ、抱き上げ言われました。子供を受け入れなさい。子供のような人を受け入れなさい。子供、自分の子供しか可愛いくない。子供は社会の一員として社会を造って行く力とならない。社会の力とならない人たちを、自分の子供のように大切にしなさい。 あなたは何を求めているのですか。自分が隣人のために働く者となるよう求めなさい。


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