「年間第26主日」(B年)説教
2015年9月27日・加藤 英雄師


 

  今日、民数記、ヤコブの手紙、福音書を読みます。それぞれが神の国への道を語っているように思います。わたしたちはイエスを知りました。イエスの姿を見ました。イエスの示す神の国の平安にあずかりたい、そして、神の国に向かって歩いています。神の国への道はどこにあるのですか。
使徒ヤコブの手紙は語ります。あなたは今、どのような生活をしていますか。豊かな生活を求めているのですか。衣服、持ち物がおしゃれなものであったらいい。豊かな富を持ちたい。しかし、不幸のことが起った時、あなたは自分の持っている物のために泣きわめくことになります。その時。自分を見つめます。豊かさは何のためだったのか。この世の生活を物によって、より平安に過ごすためだったのだ。 心はどこに行ってしまったのか。物が心を食い尽くす。あなたの心と体を火のように食い尽くす。
イエスは宣教の生活を始めた時、言われました。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。(マルコ1・15)

悔い改めなさい。今生活しているその場所から離れなさい。今のあなたを捨てるのです。
アブラハムが住んでいたところを出発したように、モーセがエジプトを脱出したように、今を捨てる。今の生活を見つめるのです。
イエスは言われました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。(ヨハネ15・19、17・16) 悔い改めは今の自分を捨てることです。悔い改めなければ福音を信じることは出来ません。神の国を見ることが出来ません。

ヨハネがイエスに言います。先生のお名前を使って悪霊を追い出している人を見ました。わたしたちに従わないのでやめさせようとしました。 イエスは言われます。ヨハネ、その人は人々に善い事をしているのではないですか。わたしに従わない。従うことなど出来ないという。しかし、彼もわたしたちの味方なのではないですか。いつか出会って語り合えたらいい。神の国を一緒に語り合えたらいい。 イエスはヨハネに悔い改めてその人を見なさいと言われてます。もっと大きな目で人を見る。
そして、イエスは厳しいことを言われます。 もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら切り捨ててしまいなさい。
手によって欲求を行うならば、そんな手はいらない。そんな足はいらない。 また、目が欲のうちに悪いものを見たいならば、そんな目は抉り出しなさい。口も人を非難する舌であるなら、人の悪口を言うものならば、そんな口はいらない。
わたしたちは自分の欲求によって自分の安心を求めているのではないですか。神様は言われます。わたしは、わたしの心を行うためにあなた方を造ったのです。手が動く、人のために働くことができる。足が動く。大切なことをするために歩くことができる。見える。喜びが見える。聞く。人とつながるために人の心が聞こえる。
もう一度問われます。あなたは自分を捨てることができますか。(マルコ8・35)

求めるのではない。与える者になりなさい。キリストの弟子だから与える者になる。キリストの弟子が多くなってほしい。キリストの弟子なら助けてあげたい。一杯の水を飲ませてあげたい。わたしたちが水をあげる者になる。わたしたちが水を飲む者になる。
  わたしたちは神様のもの。手も足も、目も耳も、体全部が神様のもの。心も神様のもの。神様を見つめる。隣人を見つめる。隣人のために働く。そこが神の国への道の出発です。


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