「年間第27主日」(B年)説教
2015年10月4日・加藤 英雄師


 

  今日、集会祈願で祈りました。「いのちの与え主である神よ、あなたは人が孤独のうちに生きるのではなく、互いに支え合い、助け合って生きることをお望みになりました。」
どんなことがあっても支え合いなさい。人は孤独ではない。人は神様とつながっている、自然とつながっている、そして、人は人とつながっている。
ファリサイ派の人々はイエスを批判しています。イエスの語っている神はイスラエルの神ではない。わたしたちを導く神ではない。ファリサイという言葉は分離する、離れるという意味です。ファリサイの道を選ぶ。ファリサイ派の人々は世俗と離れて生活する、修道生活を送る道を選んでいるのです。ファリサイ派の人々の生活規範は主の律法です。律法こそ神のみ心。律法を守って生きる。人々に律法を教え導くのです。

律法ですが、わたしたちが思うような法律ではありません。守らなければいけないこと、行ってはいけないことを箇条書きにした規範ではありません。
聖書うちにモーセ五書があります。モーセ五書が律法の書と呼ばれています。神様のみ心のうちに、モーセによって書かれたと伝えられている聖書の文書です。モーセ五書とは創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記です。

神様のみ心のうちに生きる。神様のみ心であるモーセ五書に従って生きる。しっかりと間違いなく生きる。これがファリサイ派の人々の道です。
ファリサイ派の人々はイエスをこのように見ている。イエスという指導者がいる。町で人々に声をかけ、神様のみ心を語っている。病を癒す業を行っている。この指導者は律法をぞんざいに扱っている。イエスにとって律法とは何なのか。いや、イスラエルとは何なのか。

律法についてイエスを試そう。ファリサイ派の人々はイエスのもとに集まって来た。今日のマルコによる福音書では離縁についての問題が語られます。イエスが尋ねられます。「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか。」 イエスが答えられます。「あなたたちは律法をどのように解釈しているのでしょうか。」「モーセは離縁状を書いて離縁することを許しました。」 「創世記で神様は人の命の尊さ、生き方を定められた。それが律法ではないでしょうか。」

第一朗読・創世記を読みました。 「人は独りでいるのはよくない。」と主は言われました。人は支え合って生きなさい。人は弱い、小さい者。互いに助け合って生きる者です。相手を思いやりながら生活する。
創世記のこの部分が結婚について語っています。神様は男のあばら骨で女の人を造り上げられました。あばら骨は心臓を守る骨です。命を守る。ふさわしい人、相手の人と「いのち」を共に生きるのです。互いに自分に必要な人、互いに思いやりながら生きるのです。

イエスは言われます。律法は生きるための言葉ではないですか。夫が妻を離縁して他の女を妻とする。夫の思いは何でしょうか。妻の思いは何でしょうか。大切にするために互いに荷物を負いなさい。結婚は人と人の出会い、人と人の深いつながりです。神様が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。

イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。
イエスは言われます。子供たちをわたしのところに来させなさい。
子供に善いものを与えるのはわたしたちの役割ではないですか。子供はいつも楽しい。いつも喜んでいる。周りを見つめている。知りたい心でいっぱいである。わがままを言って、叱られても、いけないことを知って、すぐに遊び始める。子供たちは神の国の喜び、平安ののうちにいるのです。子供のように神の国を求めなさい。神様のみ心のうちにいなさい。大きな神様の御心に、素直に従いなさい。その時、祝福が、恵みが注がれます。


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