「年間第28主日」(B年)説教
2015年10月11日・加藤 英雄師

 

  イエスは旅をしています。エルサレムに向かって、神様の場に向かって歩き続けます。弟子たちも一緒に旅の道を歩きます。
ふと思いました。アブラハムが神様と出会った。神様の声を聴いて住んでいたところ捨て、神様の示す土地へ向かって出発した。アブラハムの旅立ちです。 モーセが神様に出会った。イスラエルの人々をエジプトの王に仕えるものでなく、神に仕えるものとしなさい。モーセによりイスラエルはエジプトから脱出した。神の国に向かって歩いたのです。
  わたしたちもイエスの弟子ではありませんか。イエスと一緒に旅をしているのです。今のこの時間、旅の生活です。イエスに導かれて、神の国に向かう旅です。

  ある人がイエスを見つけ、走り寄って、イエスのもとに膝まづきました。そして、イエスに尋ねました。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいのでしょうか。」 この青年は永遠の命を真剣に求めています。この青年は旅に出ようとしているイエスを見つけ、走り寄ってきたのです。
イエスはこの青年に言います。あなたはわたしを善い先生と呼ぶ。「善い」とは何ですか。この世の出来事に完全な善いを求めようとしてはいけない。善いは神様御一方だけです。善いを神様にのみ求めなさい。わたしを善いと言ってはいけない。         
イエス様、あなたは永遠の命を知っておられる。あなたは神様に向かって真っ直ぐ向かっておられる方。善い先生のみ、この答えを知っておられると思ったのです。

掟を守りなさい。これが神の善いに入る道です。神の善いに入った時、永遠の命が見える。
「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」という十戒の掟を知っていますか。 その掟は子供の時から守ってきました。 イエスは彼を見つめ、優しく言われました。律法とは、律法を造られた神様のみ心ではないですか。み心が言葉になり、この世に置かれた、書かれた戒律以上に神様のみ心を思い、み心を守るのです。
この十戒の教えは隣人を愛することではないですか。隣人を自分のように愛しなさい。愛する=与えるものになりなさい。あなたのものを貧しい人、苦しんでいる人に施しなさい。あなた自身を、あなたの持っているもの、あなたの能力を貧しい人、苦しんでいる人に施しなさい。それから、わたしに従いなさい。わたしと一緒に歩きましょう。永遠の命に向かって歩きましょう。今までの服を脱ぎ捨て、新しい服で歩き始めるのです。
今はできません。その青年はイエスの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。青年は豊かな生活をしている。教養を持っている。今、これをすべて捨てるのですか。この青年は今の生活を選んでしまったのです。

イエスは言われます。金持ちが、物を持っているものが神の国に入るのはなんと難しいものか。 弟子たちは驚いて言った。それでは誰が救われるのですか。

人間にできることではないが、神にはできる。
わたしたちもイエスと一緒に、旅に出ている、一緒に歩いています。新しい服で歩いていますか。 わたしたちも青年と同じ苦しみのうちにいるのではないですか。今の全部を捨てる。今の自分が生まれ変わる。自分を捨てるのですか。自分らしさを捨てる。自分の思い出、個性を捨てのですか。

神様のみ言葉は鋭く、わたしたちの曖昧さを切り取ってしまう。混沌を切り裂く。神様のみ言葉を心と体で聞きなさいちと言われる。自分を見つめ続ける。自分の曖昧さを見続ける。
わたしたちは、まだ、人々の輝く光を求め続けている。栄光、名誉の光、富を、豊かな生活求めている。能力を、力を求めている。この世を力強く、うまく、経験を生かして生きる力を求めている。
その輝く光は消えてしまう。
いのちは静かな、透明な光です。栄光、名誉、富、宝石の光のような強く、輝く光ではありません。すべてが神様の命の光のうちある。すべてがつながり、それぞれが動いている。出来事が起こっている。わたしたちはその中に生きている。その道に戻りたいのです。
自分を捨てる。自分がなくなってしまうのですか。自分の大切なものを捨ててしまう。思い出が消える、懐かしさが消える。わたしたちは土の器です。土の器に神様のみ心がいっぱいに入って来る。土の器に自分の思いが入っていたら神様は入れない。神様の力が入れない。
自分がどこにもいないのでしょうか。いや、土の器が自分自身なのです。器の形、肌触り、声、顔、全部自分です。本当の自分です。
わたしたちも新しい服を着て、イエスと一緒に神の国に向かって歩いて行きたいと思います。



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