「年間第29主日」(B年)説教
2015年10月18日・加藤 英雄師


 

わたしたちは偉い人を尊敬します。知識のある人、教養のあるひと、静かな人、明るい人に敬意をもって接します。そんな人になったらいい。そんな人は人間関係がうまくゆく、人間関係に煩わされない。心豊かに、穏やかな生活が送れる。
しかし、それはこの世に生きる生活の問題ではないですかと神様は問われるのです。偉いとは何ですか、知識、教養に何を見出しますか。わたしたちは偉さ、知識に力を求めている、人の上に立てる強さを求めているのではないですか。静か、明るいも大きな力です。その人と一緒にいると心がほぐれます。わたしたちはそんな安心の中にいたい。そんな安心を求めているのではないでしょうか。 本当の偉大さは、本当の安心はここにない。

イザヤの預言を読みます。 ひどい病に苦しんでいる人がいる。主はこの人を打ち砕こうと望まれる。病に苦しんでいる人が主の目の前にいる。主はその人を助けないのですか。この男は人々の病を自らが背負って苦しんでいる。 この男の人は神様から杯を渡されたのです。この杯を飲みなさい。 主がその人にすべての人の病を背負わせたのです。 その男の人は人々によって打ち砕かれる。人々はその人を見る。
しかし、病に苦しんで打ち砕かれているその男の思いがわからない。
その男の思いを知る時が来た、今わたしたちは知っています。それは、「彼は自らを償いの献げもの」としたのです。 彼は自らの苦しみの実りを見た。彼が背負った病はすべての人の罪。罪がその人を苦しめている。そして、罪を背負ったその男は罪人として死んだのです。
人の罪はその男の人によって取り除かれた。主が望まれたことが彼によって成し遂げられました。
マルコによる福音書を読みます。 福音書の中で、イエスは偉いとは何かを話されます。
イエスは弟子たちを一緒にエルサレムに向って歩いています。弟子たちは思いました。エルサレム、神の都エルサレム。イエスがエルサレムで王となる。イエスは神の子、万軍の主に守られている。しかし、イエスは言われたのです。今、わたしたちはエルサレムに上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。(マルコ10・33-)  ヤコブとヨハネはイエスに特に重きを置かれていると思っていた。特別な時はいつもペトロ、ヤコブ、ヨハネが一緒だった。 ヤコブ、ヨハネは決心するのです。どのような苦しい状態になってもイエスについて行こう。イエスは必ず勝つ。ヤコブ、ヨハネは進み出て言います。
「先生、お願い事をかなえていただきたいのですが。」「何が望みか。」「先生が栄光をお受けになる時、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」
イエスは苦笑いをします。「わたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることが出来るか。」

杯を飲む。父から与えられる杯を飲む。…人の心をゆがめている罪を飲む。存在に巣食う罪を飲む。  洗礼を受けると言いました。水に沈められる苦しさ、洗礼とは水に沈められるという意味です。洗礼で、その時の自分が死ぬ。 イエスは言われます。 あなた方はわたしの杯が何であるかを後で知ることになる。そして、その杯をあなた方も味わう。 そして、わたしが水の中で死ぬことを知る。洗礼が十字架、わたしが罪人として十字架で死ぬことを知る。

イエスはヤコブ、ヨハネに言われます。わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。ほかの弟子たちはヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。
イエスは弟子たちのその思いを知りまた、深く苦笑いをするのです。

偉くなりたい者は、皆の指導的立場に立ちたい者は皆に仕える者になりなさい。皆の僕になりなさい。  あなた方は人の子の姿を見ることになる。人の子はまことの王となるために来たのである。
まことの王、人々の世話をする、人々の罪を担う、人々の罪が赦されるために働くのである。 人の子は多くの人の身代金として自分を献げるために来たのである。

   本当に偉いとは何ですか。わたしたちは安心を求めている、それ以上に、安心を造る力となりなさい、苦しみとともにいる者となりなさいと主は言われているのです。


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