「年間第19主日」(C年)説教
2016年8月7日・加藤 英雄師


 

   7月31日(日)の夜から昨日8月6日(土)まで、一週間黙想に行ってきました。車で高速を3時間ぐらい走ります。高原の中にある修道院です。涼しかった。部屋には冷房が入っていないのですが、大丈夫でした。もっとも、小さい扇風機を使いましたが…。
丁度、マリア会の神父さんたちの黙想会も同じ日時でした。講師を入れて14人、完全沈黙です。マリア会の神父さんたちはプログラムに沿って生活しています。食事を一緒にさせてもらったのですが、食事中も一切話さない。顔だけの知り合いになりました。わたしはシスターたちの毎日の朝ミサをさせてもらいました。そこで短い説教を話すだけです。黙想会、まったく一人になります。

黙想:神様にゆっくりと耳を傾ける時。自分をぶちまけて、神様の思いに耳を傾ける時です。
新しい心になり、神様に出会う時です。神様を思い、神様のうちに入って行けたらいい。
黙想の日々で一番嬉しいのは、自分の心が静かになることです。そして、自分の小ささ、弱さを見つめます。

イエスは弟子たち、わたしたちに言われます。
小さく、弱い者たちよ、神の国に入るのはそんなに難しい事ではない。神の国に入りたい、善い人になりたい、その思いを神様は喜んでくださる。
 どうしたら、神の国に入れるのですか。どうしたら善い人になれるのですか。
神様はにこっとして言います。 あなたの持っているものを売り払って、隣人に施しなさい。
あなたはいろいろなものを持っているね。実は、神様はあなたを豊かにするために、そんなにたくさんの物を与えたのではないんだ。人の助けとなるために、あなたの持っている物を使いなさい。そのために与えられたんだ。みんなが与えるものになる。
そして、あなたが持っている財布の中身を隣人のために使いなさい。擦り切れることのない、長く使えるような財布を持てればいい。欲しいものを買うためのお金ではないのですか。いや、違います。神様の思いは、持っているお金は人を助けるために使うのです。

持っているものを隣人のために売り払う。そんなことは出来ないよ。隣人って誰のこと?
隣人は身体が不自由で、一人では生きて行けない人だ。助けを求めてる人だ。あなたの前にはいないね。出て行きなさい。体の不自由な人たちは静かに暮らしているから、出て行かなければ出会えない。  たとえば、目の不自由な人がいる。耳の不自由な聞こえない人、話すことが出来ない人がいる。 働けない、人に支えられなければ、生きて行くことが出来ない。
  でも、注意しなければいけないのは、不自由だから助けてやると言ったら、いらないと怒られてしまう。怒られて当たり前。体の不自由な人は、このわたしが身体が不自由だから、かわいそうだと思っているのか。そんな怒りだと思う。 神様は言う。人が生きるために求めるのは当たり前。人が生きる。命が生きる。人は支えられ、支えて生きるんだ。
隣人を助けるのは難しいですね。
  いや、その人と友だちになりなさい。体の不自由な人と友だちになった時、心のつながりが出来た時、一緒に生きることが出来るんじゃないかな。支えたいと思ったら、その人と友、兄弟となる。そうでなければ、その人はいつも他人。不自由だから、かわいそうだから、あげてる、与えてると思ってしまう。

黙想で世話になった修道院からちょっと離れたところに、その修道院が世話をしている施設の家があります。そこに精神障害を持つ人が住んでいるホームと短期ホームステイ、外来があります。
院長さんが言います。ここでケアされている人たちは先生の心を読んでいる。先生が一方的に威張っていると、すぐ離れて行く。叱られると、叱る先生の心を読む。ここに住む人たちは一緒に 住みたいのです。一緒に生きることを求めているのです。
命の重さは誰でも同じ。それを忘れてはいけないと思います。

神の国に入る、善い人になる。これは神様のみ心に適うことではないでしょうか。
ヘブライ書に故郷という言葉を見つけました。神の国、善い人の世界は故郷ではないかと思うのです。故郷を持ちなさい。故郷にいると心が落ち着く、ゆっくり出来る、見栄を張ることがない。本当の自分がいる。
神様の場が故郷。神様のために働くのはいい。神様のために苦労するのだったらいい。

故郷に向かって歩んでゆくことが出来ますように。


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