「聖母の被昇天」(C年)説教
2016年8月15日・加藤 英雄師


 

  聖母の被昇天、イエスのお母さんマリア、わたしたちのお母さんが天の栄光にあげられた。  感謝します。
マリア様はわたしたちのお母さんです。
特に、殉教者のお母さん、
    教会のお母さん、
    そして、すべての人のお母さんです。

  イエスは神様からの子、だから主なる神にする、当たり前のことだと思ってしまう。この子は自分の腹を痛めた子、苦労して生んだ子。育てるために苦労した子。しかし、神の子として育てなさい。いつもそれを心に留めていたと思います。
マリア母さんはイエスのお母さん、生んだ子に教えられる。自分の息子に耳を傾けた方です。

神様は最初の子を主のために奉献しなさいと言われます。日本で言えば、長男は家を継ぐ者、名を継ぐ者となる、何か似ているように思います。わたしたちは幼児洗礼、子に洗礼を授けます。すべての子が主の道を歩む者になるよう勧められているように思います。

お母さんの大変さをつくづく思います。子供のわがままをうまく受け入れてきた。しかし、成長すると親から離れて行きます。反抗期に入ると親をないがしろにする。一人の大人となって、親から離れ去ってしまうように思ってしまう。しかし、母さんは子供をいつも包んでいる。子供も、自分が生きる責任を知った時、母の大きさを忘れないのです。

母は子供を包んでいる。マリアの愛、お母さんの愛を見つめて行きたいと思います。

有島武郎の「一房の葡萄」という子供のための小説があります。
横浜の山の手の学校に、絵の好きな少年がいました。絵をうまく書きたい。僕の持っている絵の具では色が出せない。学校の同級生に舶来の絵の具を持っている少年がいる。ジムという西洋人です。その絵の具がほしくてほしくて仕方がない。
ある日、昼休みに皆が遊びに校庭に行っている時に、教室に残っていました。そして、ついにジムの机の中から、その絵の具を取ってしまった、盗んでしまったのです。すぐに僕がやったとわかり、
ジムとその仲間に先生のところに連れて行かれました。僕は先生の前で泣くばかりです。少年たちを帰し、先生と二人きりになりました。先生は静かに言います。「もう、絵の具は返しましたか」「あなたは自分のしたことを嫌な事だと思っていますか」

翌日、僕は学校に行く気になれませんでした。でも、僕が学校に行かなければ僕の好きな先生はもっと悲しむだろう。思い切って学校に行きました。僕が学校の門をくぐった時、待ち切っていたようにジムが僕の方に飛んで来て、僕のれを握ってくれました。
ジムと僕は先生のところに行きました。
先生は言いました。これから二人は善い友だちになれればいい。ジムは僕の手をとって握手をする。しっかりと握ってくれました。先生は言います。「昨日の葡萄はおいしかった?」僕はええと返事をしました。それならまたあげましょうね。先生は窓から葡萄一房をとり、細長い銀色のはさみで真ん中から二つにぷつりと切り、ジムと僕にくださいました。
その葡萄の粒と先生の手のひらを、今でもはっきりと思い出します。

ぼくの大好きなあの先生はどこに行かれたのでしょう。
一房の葡萄の思い出です。
一房の葡萄は母のやさしさです。少年・僕は心を洗われた。

罪を罰する前に、罪を十分見つめるのです。おおらかな心で、罪を犯した人を包むように、その罪を見つめる。お母さんの心を知ったなら、罪を犯した人はもう悪いことはすまいと心に決めるつ確信します。

マリア様の心、母さんの心がわたしたちを包んでいる。マリア様が手を取ってイエス様のところに連れて行ってくれます。感謝します。マリア様、わたしたちを見守ってください。


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