「年間第29主日」(C年)説教
2016年10月16日・加藤 英雄師

 

  今日の読まれた出エジプト記の前のところで、人々モーセに不平を言う出来事があります。イスラエルはレフディムに宿営したのですが、そこには水がありませんでした。人々はモーセに言います。われわれに水を与えよ。この荒れ野でわれわれは渇いて死んでしまう。わたしたちは主の導きのうちに歩いている。しかし、苦しい。主のうちにあっても、希望が持てない。
モーセは神様の指示の通り、杖をとり、岩を打ちました。そしてそこから水がほとばしり出たのです。

主からの言葉を信じる。全く信じる。わたしたちの生活で、例えば、主の言葉に従って歩いたら、苦しい事、いやなことばかり起こる。少しもよい事がない。主の言葉に希望が持てない。
しかし、わたしたちは主を信じる。どんな時でも、どんな事が起こっても主のうちに生きるのです。

イスラエルとアマレクが戦った。旅の中のイスラエルです。戦争がうまくないと思います。しかし、全力で戦う。全力で祈ります。モーセは手に杖をもって丘の上に立ちました。手を上げるとイスラエルが優勢になりました。手を上げるとは神様に向かって祈ること、恵みを求める姿勢のようです。

イエスは、気を落とさず絶えず祈らなければならないと教えられます。どこにいても、どんな時でも祈りなさい。 ある人がこんな話をしました。ずっと以前のことですが、ある日、わたしは祈りを大切にしようと心に決めました。一日にロザリオ2環、朝と夜寝る前に1環づつ祈る、ロザリオの環(たま)が黒光りするまで祈ろうと思いました。毎日祈る。祈り続けます。何も願い事をしないで祈ります。祈り始めのときは喜びが湧き出ました。何か修道者になったような気持になりました。生活が違ったものになっている。そのうちに、疑問が出てきました。こんなに長く祈っているのに、まだまだ、祈りの中に雑念が入って来ます。祈りながらほかの出来事を考えている。こんなのでいいのか。また、全く別なことも思い浮かぶ。今わたしは何も求めないでずっと祈っている。祈りに、そんなによろこびも感じなくなってきた。祈りに集中出来なくなってきている。何のために祈り続けているのか。こんな祈りは無駄じゃないのか。祈りを離れるようなことが頭に浮かぶのです。

気を落とさずに絶えず祈らなければならない。 ただ神様の前で祈りなさい。何も求めずに祈りなさい。その無駄な時間は、無駄と思われている時間は神様と一緒にいる時間です。祈りは何も生まない。祈っても何も得をしない、だからいいのです。  祈っても神様は何もくれないのですか。
しかし、祈っているその人が、何が出来るか、何がしたいのかはわたしたちの問題ではない。
神様が、その時に、なさることではないですか。
祈りには何もないと言われたら、祈りたくなくなってしまう。何もしたくなくなってしまう。

その考えは、神様に報酬を求めているのではないですか。恵みがもらえないなら、祈っても仕方がないと思ってしまう。 しかし、神様は祈っているあなたを見ている。神様は言われます。祈ることが出来るようになった時、あなたに隣人を示そう。あなたが為すべきことを示そう。
今の社会の流れがおかしくなって来ている。神様はそれを放っておかれない。祈ることを知った、祈ることの出来たあなたが働く時です。

地上に、神様のために働く人が多く生まれますように。


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