「王であるキリスト」(C年)説教
2016年11月20日・加藤 英雄師

 

  祈りの力強さを考えてみました。助けてほしい、必死に祈ります。祈って、祈って、祈ってその願いがかなったらこれほど嬉しい事はない。祈りには力がある。修道会のシスターに出会って、そのシスターが神父さんのために祈ってますよと言われると嬉しい。
祈りの世界に入ると力が与えられますと聞きます。例えば、祈りを大切にする聖霊運動の人たちの中には病を癒す力が与えられていると聞きました。

わたしにちょっと変わった古い友人がいました。彼女には霊能力があります。こんな出来事がありました。英会話の仲間に医師がいました。その人がサンフランシスコの会議に行きました。その日、会議の始まる日、サンフランシスコの会議場の入口に彼女が立って、待っていたのです。いつ、どこで、会議があるのかは誰も知らなかったのです。 古い友人、女の人ですが、彼女はそのうちに訳の分からないことを言い始め、医者の治療を受けることになりました。わたしの20代のころの出来事です。 わたしは祈りが好きです。昔の話ですが、祈りの世界に入って、何でも出来る力を注がれたらいいなと思ったことがありました。祈って、病気をいやす。嫌な奴がいると、そいつを車の事故に合わせる。あの養護施設にもっとお金をあげたい。自分には苦労はかからない。そんな力を持つ。 しかし、思ったのです。全部自分の思いのままに行おうとしている。力を自分の思いのままにしたら大変なことになる。この願いは神様の思いのままの司祭ではない。恐ろしい事を考えたものだと思い知ったのです。

日本には何万という宗教の集まりがあるそうです。20人くらいの集まりから始まります。その教祖はそれこそ病気をいやしたり、探し物をよくあてたりする力を持っているのです。大きな新興宗教の教祖はそれなりの大きな力を持っているのでしょう。
人は誰しも、不思議な世界をどこか心で求めているように思います。人の力でどうしようもなくなった時、神様に祈り求めます。助けてください。その神様は難しい神様ではない。困った状況を見て助けてくれる神様なのです。

苦しい時、困った時、助けてほしい、救ってほしいと願います。救ってくれる力を求めます。しかし、始めに考えなければならないのは、人は皆、力を持っていることです。自分を守る力です。頭がよい。自分がよくなるように頭を使う。運動が出来れば、スポーツに励む。スポーツ選手になると莫大なお金が入ってくるといいます。選手になるため練習をする。力を蓄える。

十字架の上で、イエスが苦しんでいる。民衆はそれを見ている。何も出来ない。議員たちは嘲笑う。兵士たちは侮辱する。お前は神から遣わされた預言者か。メシア、わたしたちの救い主か。神の力を持っているのではないか。自分を救ってみろ。

イエスは何も答えない。イエスは人が考えられないような大きな力を持っている。この力は自分を救うためのものではない。自分が楽になるための力ではない。隣人を救うための力。隣人にいのちを与えるための力。 イエスはみ言葉。言葉が人の中に入り、その人は力づけられる。生きる力が与えられる。イエスは水。イエスの水を飲むものは清くなる。生きる力が湧いてくる。そして、その人から、泉が湧き出る。力は自分のためではない。自分に与えられた力によって、人を支えるものになる。 先程、力は自分を守るためだと言いました。本当はそうではない。力は隣人を支えるために与えられているのです。一緒に生きる、支え合って生きる。それは支える者になりなさいということではないでしょうか。

イエスは祈ります。父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです。



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