「待降節第1主日」(A年)説教
2016年11月27日・加藤 英雄師


 

  今日から待降節が始まります。神様を待つ。今日のミサは神様がいない、紫のストラです。
聖書と典礼を開き、第一朗読を読むと、どうしても、イザヤの預言を語りたくなってしまいます。

「主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち どの峰よりも高くそびえる。」
山は神様と出会う場です。伝統ある、深さのある東洋の霊性、西洋の霊性があり、霊性の山のうちに、山頂で神様と出会います。人々の祈りの中で神様との出会いがあります。その霊性の山々があります。たくさんの山があります。それらの霊性の山々を超えて、どの山の峰よりも高く、わたしたちの神様の山は高くそびえています。

生き生きと生きる命の道、支えられ、支えながら隣人と共に歩く道を通ってその山に向かいます。その山の頂には十字架が立っています。十字架を背負って歩かれ、十字架にかけられ、この世の命を奪われた子羊がその山におられます。その山への道がイエスの姿によって示されています。

奪い取って豊かになるのではなく、与える者になって豊かさを味わうのです。心が豊かです。だから与えることが出来るのです。与える者になって豊かさを示しなさい。大いに働きます。隣人のために働きます。 神様のうちに歩む者よ、主の光の中を歩もう。

ロマ書でパウロは言います。 あなたは今眠っているのですか。イエスはあなたに何度も何度も呼びかけているのですよ。眠っていない? 主イエスの言葉を心の耳で聞きなさい。
 社会が悪い方向に進んでいます。経済によって豊かになる。欲求が解消されると言います。体が豊かさを身につけるのではありません。欲求の実現によって豊かさを喜ぶのではありません。キリストの豊かさを示したいのです。与えることが豊かさです。与える者になるのです。「貧しい人々は幸いである。」

待降節、主の到来を待つことです。主を待ち望む。しかし、クリスマス・プレゼントを待つように、贈り物を待つように待つのでしょうか。主は言われているように思います。待っているあなた、ここに来なさい。その場所に行きなさい。足が悪くて行けません。足を求めなさい。そこに行ける足を求めるのです。時間がない。是非、時間を作りなさい。仕事に追われている。行けない。??? あなたは本当に求めているのですか。求める心は大切です。もっと大切なことは出発することです。歩いて出会うことです。

「人の子は思いがけない時に来る。だから、目を覚ましていなさい。」
イエスはたとえでノアの箱舟の話を語られました。 ノアが一生懸命働いている。しかし、人々は働こうとしない。生活を楽しんでいる。地には木々が豊かに茂り、果実が豊富に実っている。魚を捕る、動物の肉も豊富にある。自分の力で十分に楽しんでいる。いや、その楽しみは、酒宴と酩酊、淫乱と好色を引き起こしています。そして、争い、ねたみを生んでいます。
力のある者は自分の力で楽しむ。弱い者は力のある者に従う。人々はもっと刺激を求める。どんどんひどい酒宴になって行きます。人々は静かな時を持ちません。自分が何をしようとしているか見ようとしません。自分を見つめません。そして、誰もその状態を止めようとしないのです。

ノアを見ると真面目に働いている。力仕事をしている。山の上の方から、下まで木を伐り取っている。そんなに多くの木を切ってどうするのか。舟を造る。舟を山の上に作るのか。馬鹿なことをしている。
人々は馬鹿にしながら酒を飲む。なぜそんなことをするのか。神様の言いつけだ。何故山の上に舟を造るのか。神様は天からの水で地を拭い去ろうとされる。何を言うのか。人の生活が乱れ過ぎているからだ。
人々は、自分たちがそれほどまでに堕落に落ちていることに気付いていない。
人の子の来る時も、人々の生活はそのようではないか。

今日、わたしたちは終末ではなく、待降節に主が来られることを待っています。
「人の子は思いがけない時に来る。」

神様はわたしたちに問われています。あなたたちの今の生活は何ですか。普通の生活を送っています。 あなたに隣人はいますか。あなたは与える者になっていますか。あなたの愛はどこに向かっていますか。 わたしたちもノアの仕事をすることが出来ますように。


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