「四旬節第3主日)」(A年)説教
2017年3月19日・加藤 英雄師


 

  イスラエルは荒れ野を歩いています。喉が渇いて仕方ない。太陽が暑い。水がない。水がたやすく手に入らない。民は不満を言います。わたしたちは土地の豊かなところに向かって歩いているのではないですか。人として尊厳をもって生きることが出来るところに向かって歩いているのではないですか。水がない。渇いている。こんな状態では、わたしたちは死ぬかも知れないのです。

イエスは旅に疲れて渇いておられた。イエスの休んでいるところに井戸があった。昼頃、サマリアの女が水を汲みに来た。イエスは言いう。水を飲ませてください。

水がほしいということを読んだ時、わたしは青春時代、一人旅、アフリカのモロッコに行ったことを思い出しました。大きな町の広場を歩き、いろいろな店を見たり、芸人の活動を見たりしました。昼頃になって歩けなくなると、小さい木陰に休むところがあり、ベンチがありました。昼は焼けつくように暑くなるのです。そこに入れてもらい、夕方まで待つのです。その休みどころに、土でこさえた小さな茶碗に一杯5円ぐらい、2杯ずつ水を売る少年がいました。試しに2杯飲みました。本当に小さい木陰の休みどころで休んでいる。そこにいて動けない。ちょっと退屈してきました。まわりに何かを見つけたので、外に出たくなりました。まわりの人たちは陽射しに当たると危険だと、止めました。それを聞かぬふりをして、思い切って木陰から外に出ました。外の気温は50℃ぐらいだったかも知れません。直接、陽に当たる。外に出て、実は1分ぐらいで倒れてしまいました。すぐに木陰にいた人たちが助けに来てくれたのです。横になって、少年からの水を飲みました。命の水にあずかりました。

サマリアの女はイエスに言う。どうしてユダヤ人のあなたがサマリアの女に水を飲ませてほしいと頼むのですか。イエスは言うのです。ここに生きた水を与える男がいる。女はイエスの姿に力を見ました。イエスは言われる。わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。
女が言う。その水をください。

生きた水がある。その水はイエスの内から出る。イエスの心であるみ言葉ではないかと思うのです。イエスがおられるというその力ではないか。生きた水とはイエスご自身が聖霊のうちに水となってその人のうちに入り、働かれるのではないかと思うのです。
イエスを知ったわたしたちは、イエスと出会う。イエスの心の中に入る。イエスの心が聖霊によって働いていると思います。イエスの心に働く聖霊に会うのです。
(今、わたしたちはイエスの御体をいただきます。イエスがわたしたちの中に入られるのです。)

母が倒れました。病院に行き、癌だと分かりました。65歳です。そして言われます。あと3か月の命です。祈りました。癒してほしいと祈りました。ある時、聖霊運動があると聞きました。初台教会に集まりがある。通いました。聖霊により頼むのです。聖霊が働かれる。善い道に導かれる。熱心に通いました。聖霊によって洗礼を受けるとでもいうのでしょうか。「満たし」というのがあります。しかし、満たしをまだ受けないうちに母は帰天しました。臨終洗礼を授けました。天国にいると信じています。たまに母に頼みごとをします。

わたしたちは神様によって与えられた道を歩みます。その歩みが信仰です。神様とのつながりが義です。まっすぐなつながりがまことの義です。神様に出会っているわたしたちは神様の恵みの中にいます。神様の道を歩むわたしたちに与えられるすべての出来事が恵みです。

キリストの姿を思い巡らします。わたしたちは罪の中にいた。いる。神様のもとに戻ってほしい、その代金を支払います。その代金はわたしの命です。罪の世界から神様のもとに戻る代金がイエス・キリストの命だったのです。わたしたちは愛されています。命をかけて愛されています。本当の救いは愛のうちに歩むことです。わたしが、一人一人が自然を愛する、人を愛することではないでしょうか。


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