日本26聖人殉教者祭 講演

『殉教者を想い ともに祈る』
2007年2月4日 カトリック本所教会

トマス・アクィナス 前田万葉(まえだまんよう)師

 

1p〜29p

トマス・アクィナス 前田万葉(まえだまんよう)師
〜プロフィール〜


  1949年3月3日 長崎県南松浦郡新上五島町仲知に生まれる
  1975年3月   サン・スルピス大神学院卒業
  1975年3月19日 司祭叙階      三月や 叙階記念日 煙草断つ
  1975年4月   福江教会助任   ふるえつつ 聖週間の 何やかや
  1976年3月   浜脇教会主任   烏賊墨の 一筋垂れて 冬のミサ
  1980年3月   宝亀教会主任   台風の 来るたび想ふ 天主堂
  1988年7月   俵町教会主任   天高し 白亜の塔の 聖堂建つ
  1998年4月   田平教会主任   瀬戸山の 土風薫る 天主堂
  2000年3月19日 司祭叙階25周年(銀祝)   銀祝と 大聖年の 賀正かな
  2001年4月   平戸ザビエル記念教会主任   
                      ザビエルの 十字架きらり 冬の月
  2006年4月   カトリック中央協議会事務局長 
                      ガンバレと マリアの里の 桜かな

『殉教者を想い ともに祈る』

前田師:
  「お早うございます」。
  ご紹介いただきました前田です。私は歴史学者でも神学者でもありませんし、ましてや語学も全然駄目ですから、時々、禁止用語を使ってしまう可能性があります。そういう差別の世界で生きてきた人間でございますので、差別用語が出てしまったりするかも知れません。日本語自体の標準語もよく分かりません。五島弁か長崎弁ぐらいならば得意です。世間では失言で失敗することが最近は多いようです。そういう言葉が出るかも知れません。覚悟の上でお話したいと思いますので、もし、そういう点がありましたら、どうぞ遠慮なくご指摘くださるようにお願い致します。
  私が、「語学は駄目です」と、カトリック中央協議会の事務局長を頼まれた時に言いましたら、担当司教様から、「語学って、外国語のことですか」と言われ、「いいえ、日本語もです」と答えたら笑われました。本当にもう、聞いてお分かりのように、日本語も駄目な講師で、申し訳ございませんが、前事務局長の酒井俊雄神父様から頼まれましたので、断りきれずに参りました。どうぞよろしくお願い致します。
  それでは、座らせて頂きます前に、お祈りをしたいと思います。
  父と子と聖霊のみ名によって、アーメン。すべてを創り治められる神さまがこの集いを祝福し、教え導いてくださいますように主の祈りを捧げましょう。

  天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。私たちの罪をおゆるしください。私たちも人をゆるします。私たちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。アーメン。
  父と子と聖霊のみ名によって、アーメン。


 それでは、資料を使いながら、“殉教者を想い、ともに祈る”ということで始めさせていただきます。
  今日、皆さんにお配り致しております、この「殉教者を想い、ともに祈る週間」の小冊子を使ってまいります。今日からの一週間は祈る週間になっておりますので。この小冊子、私は何回も目を通しましたけれども、本当によく出来ておりまして、今日の私の講演内容も、そのままこの小冊子に沿って進めてもいいというぐらいによく出来ております。まず、この手引きの使い方、そして、溝部 脩司教様の「ペトロ岐部と187殉教者──日本の教会の自信と活気を願って──」の文章と、第一日目の祈りまでの間の文章をかい摘んで、ピックアップして説明していきます。使い方、そして、主旨というものがよく分かると思いますので、前置きとして、この説明を少ししてみたいと思います。

 皆さん、この小冊子の3nをお開きください。「この手引きの使い方」とありますけれども、ちょうど3nの中ほどに、「学び」(過去の出来事を想起する)、「分かち合い」(いまに照らす)、「祈り」(あすに向けて宣言する)と記載されております。「学び」(過去の出来事を想起する)とは、殉教者たちの出来事です。「分かち合い」(い

まに照らす)、「祈り」(あすに向けて宣言する)と記載されております。「学び」(過去の出来事を想起する)とは、殉教者たちの出来事です。「分かち合い」(いまに照らす)とは、私たちの生活に重ねて想うということ。そして、「祈り」(あすに向けて宣言する)とは、これは具体的な生活の目標を定め、殉教者の取り次ぎを願って祈ることです。この小冊子は、この三つの次元を踏まえた形式になっているということです。
 そして、各テーマの構成というのは、現代日本の教会を方向付ける「霊性」を見いだすということが目的です。現代の私たち日本の教会を方向付ける「霊性」です。この「霊性」という難しい言葉は、後の方で出てきますので、そこで説明致します。
  次に5nに行きますと、今日、トマス・エセイサバレナ神父様が、説教で、本当に良く説明して、分かりやすい説教をしてくださいましたが、この『「ペトロ岐部と187殉教者」の列福運動はどのようにして起こったか』というところですね。ここに、まず、日本には26聖人、そして、トマス西ら16聖人の合計で、今まで42人の聖人がいる。さらに205人の福者がいて、合わせて247人が殉教者として公認されているという説明があります。
 今日は日本26聖人のお祝いです。この本所教会が毎年祝っているということです。私は長崎教区で31年間司祭をしておりましたが、東京教区で一番知っていたのは、この本所教会でした。なぜかと言いますと、日本26聖人の殉教祭をいつも盛大に祝っていることを、カトリック新聞の報道、広告、ポスターなどでよく見かけていたからです。
 しかし、私は、日本26聖人と言いますと、長崎の殉教祭だと思っていたぐらいです。実は、私は五島列島の出身ですけれども、それも上五島の、「五島の果てなる北の端」といわれる一番北端の方です。本当に、東と西が、右を向いたら東に
  五島灘、左を向いたら西に東シナ海というぐらいで、険しい、小高い山があって、真ん中に立つと、両方がよく見えるのです。そういうようなところですから、長崎まで行くのにも、私が小学生の頃、8時間も船に揺られて行っておりました。長崎に行くのは、一年に一度どころじゃなくて、確か小学生を卒業するまでの間に、2,3回行ったのかなぁと思います。それも、日本26聖人殉教祭のために、西坂の殉教祭に行った、その記憶しか長崎に行った思い出はないほどです。そして、そこで、当時の山口愛次郎(長崎・浦上出身(1946〜1976))大司教様が司式して殉教祭を盛大にやるその姿、今で思えば、ローマに行ってごミサに与かっているような、そういう崇高さを感じていました。それこそ、パパさまを見たというぐらいの感激をしたことを覚えております。
  そのような印象がありますので、東京で、日本26聖人の殉教祭をする教会があるんだなぁ――と、いつも報道を読んだり見たりしておりました。だから、この本所教会という名前はよく知っておりましたし、初めて訪れて、本当それに相応しい教会だなぁと思って、喜んでおります。
  また、私が6,7年位前に勤務していた、長崎県北松浦郡、現在は平戸市に合併した、田平(たびら)教会を想います。以前は瀬戸山天主堂──平戸瀬戸の山の手にあるので──と言われ、「ミレーの晩鐘」の風景にぴったりの煉瓦造りの天主堂です。今度の、世界遺産の暫定リスト入りした教会の中のひとつでもありますが、その教会が、やはり日本26聖人に捧げられております。
 建設当時の、中田藤吉(五島・鯛之浦出身(1872〜1956))という有名な神父様が日本26聖人に捧げたのです。その理由が、この教会から必ず26人の神父を作るという目標を立てて、献堂したと言われております。当時は、その教会を造るだけの熱心さが有りましたので、1年に2人とかの時もあるなど、どんどん司祭が誕生し、毎年のように続いた時もありまして、最初の50年ぐらいのうちに、20人余りが
    司祭になっていました。私が主任司祭の頃に、21人目か22人目が25年ぶりに誕生しました。長崎教区といえども25年ぶりだったのです。二十数人の神父が出ていた教会が、25年ぶりに新しい神父が誕生したというぐらいに召命不足が、本当に叫ばれております。
 長崎教区を見ても分かるのですが、本当に熱心な小教区ほど、司祭・修道者を多く生み出しているという現実は、明らかです。この小冊子にも同じ内容が出て参ります。また、この本所教会からも、十数人の司祭が誕生していると聞いて、ああやはりねと思います。私も、そういう意味からも、非常に印象深く感じました。
  この26聖人の中には、五島出身のジョアン五島という聖人がいます。ですから、地元のこのジョアン五島という聖人のことを、いつも聞き、そして、いつも26聖人の聖歌を歌って、本当に尊敬を表わしておりました。私の出身の、上五島、現在は新上五島町(しんかみごとうちょう)になりましたが、仲知(ちゅうち)という教会は、このヨハネ五島に捧げられております。26聖人についてはこのくらいにいたします。
 また、16聖人については、私が18年ぐらい司牧をしておりました、長崎教区・県北地区の生月(いきつき)というところを想います。今度の188殉教者の中にも「トマス西玄可とその家族」が入っておりますが、既に聖人になった「トマス西」という神父様は、生月出身の同じ家族なのです。今度、列福予定のガスパル西玄可のお子さんになります。ガスパル西玄可さまの殉教地は、本当に粗末な、ただ石の祠があるだけのお墓でしたけれども、このトマス西の16聖人列聖式の頃に、本当に盛り上がって、記念碑と大きな十字架が建って立派になっております。元の粗末な石の墓に生えていた大きな松が、その頃、枯れかかっていたこともあって、16聖人の、息子さんの列聖式に、その松の木を切り倒して、大きな十字架を作り、教皇さまに奉納したという出来事がありました。16聖人には、そういう想い出があり
    ます。
 また、205福者には、カミロ・コンスタンツオ神父様がいます。やはり、県北地区で捕まって、火あぶりの刑になり、その時には、平戸瀬戸に船が出て、この殉教の様子を見物したそうです。その見物人たちに向かって、カミロ・コンスタンツオ神父様は、説教をしたとのことです。説教をしながら、火あぶりの刑で殉教していったのです。焼く罪と書いて、焼罪(やいざ)殉教祭が、今でも毎年行われています。また、西玄可の殉教地でも、ガスパル様の黒瀬の辻殉教祭が行われております。
  そのような殉教者たちを、今日は想って、祈るということです。「公認された殉教者」ということについては、次の6nにありますが、下のほうですね。
 「候補者はどのようにして選ばれたか」と、下から4行目に大きな字で書いてありますけれども、その2行上、
  「1630年台の厳しい迫害の時代に殉教した代表的な人物に焦点を当てました。」とあります。
  今回もそうですけれども、1630年代の殉教者、とにかく古い時代の殉教者たちだけが公認されております。今日、説教されたエセイサバレナ神父様もおっしゃっておりましたが、殉教者は、本当は何万人もいるのです。
 そして、今度のペトロ岐部と187殉教者の列福運動の最初の段階では、まだ時代も決めずに、色々な調査をしようということだったようです。後でお話しますが、私の先祖が殉教した五島列島の久賀島(ひさかじま)のこと。五島列島の一番下の島が福江島で、その上にあるのが久賀島です。この久賀島の殉教というのは、明治時代の殉教として有名な殉教で、そして、本当に悲惨な、酷い仕打ちを受け、42人も牢死しました。本当は39人ですけれども、解放された直後に亡くなった人も入れると42人が牢死したのです。
 その中に、私の先祖もいたのです。明治時代ですからそう遠くはないのです。私
    の祖母の父ですから、曾祖父になるのでしょうか。紙村年松といいますが、21歳で入牢していたのです。その時、大家族でしたから9人一緒に捕えられて牢に入れられ、そのうち3人が牢死しています。その人たちは、時代的に振り落とされていって、ペトロ岐部と187殉教者だけに絞られ、今度の列福が予想されているわけです。そのようなこと説明いたしまして、また、できるだけ全国を網羅しているということなどを付け加えまして、
 次に8nに行きます。上から6行目、7行目にかけて生月の西一家のことも出てきます。そして、10行目に行きますと、
  「一つの信念を貫いて生きるとはどのようなことかを読む者に問いかけます。」
  さらに12行目、
  「信仰を次世代に伝えることに成功しているとはいいがたいいまの日本の教会に、考える多くの材料を提供しています。」
  このことを思い巡らすための、話になれば良いなぁと思っております。つまり信仰伝達のことです。
  やはり、殉教者を想うということは、本当にそういう信仰伝達のことを思わざるを得ないということです。
 次は11n。これも全く同じことを言っております。11nの下から6行目から読みますと、
  「家庭の大切さは何度繰り返してもよい現代の課題です。現在の日本に生きる熟年の信徒の中には、自分たちの信仰を次世代に伝えられなかったと、胸を打つ人が多いと思います。」このようなことも念頭に入れながら、私の先祖の話をしますので、お聞きくださればと思います。
  そして、13nに、「結び」としたところを読んでみますと、
 「ペトロ岐部と187殉教者の列福を目前にして、わたしたちは胸を張り誇りをもっ
     例えば、ここに「五島キリシタン史」(浦川和三郎著)の本を持って来ておりますが、この本の一番最後のところに、「五島キリシタンに告ぐ」として、浦川和三郎(長崎・浦上出身(1876〜1955))司教様が、(五島のキリ シタンが迫害されていた、あるいは、これを書いた当時も、まだまだ差別されたり、いじめられたりしていた、)当時の五島のキリシタンに対して励ましの言葉を書いているのです。とにかく今は蔑まれたりしているけれども、きっといつかは認められて、そして、尊敬を受けるときが必ず来るというふうな励ましの言葉を、書いているのです。浦川和三郎司教様ばかりではなく、1900年代始めに五島の各地を司牧していた古い神父様たちも、各小教区を司牧しながら、信者を励まし、言葉としていつも語っていたみたいです。この長崎新聞にも、そのことが書かれているのです。17面の一番下のあたりにも「厳格な保存管理計画を」という見出しのところに載っています。
  『「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」(県と五市二町の共同提案)について、文化庁がユネスコの「世界遺産暫定リスト」の追加候補に決めた背景には、禁教・迫害・潜伏を経て復活を遂げた本県独特のキリスト教文化の精神性の高さが「世界史的価値」として評価されたことがある。』(長崎新聞2007年1月24日号より)と。
  この「精神性の高さ」が評価されたのです。今は差別用語になるかも知れませんけれども、少なくとも私たちが子供の頃でさえ、耶蘇とか、ボサとか、切支丹とか言われ差別されていたわけです。そういう禁教にもかかわらず、迫害にもかかわらず、潜伏をして、そして復活を遂げた。この復活のころに明治の大迫害もありましたけれども、このキリスト教文化、精神性の高さです。つまり、今で言えば、「信教の自由」です。人権的な確信です。ですから、殉教者というのは、ただ犯罪人などとして殺されたのではなく、本当に、人権を証しした、信教の自由を証しした、まさに愛と平和と人権の証し人です。殉教というのは、確かに証しのことで、
    今日も、エセイサバレナ神父様がお説教で言っておりましたが、とにかく態度、どういう生き方をしたかということが大切なのです。この記事を読んでいて、涙が出たのです。そのために、皆さんにも参考として、読んで欲しいと思いましたから、聖堂の壁に貼ってもらうという形になったわけです。
  それから14nからの「日本の教会の霊性」というところです。私が今日、前田家の信仰遺産というものをプリントして配っておりますが、それは決して私の先祖の自慢をするというつもりは毛頭ありません。それを書いた説明は後でいたしますが、今の私の司祭としての霊性というものは、確かにそれはキリストの言葉から出てくるべきものです。同時に自分の先祖や両親の生き方というものが、今の自分を生かしている。だから、それらが私の霊性になっていると私は思っているのです。ここ14nのタイトルの下に「霊性とは」とありますが、本文の上から4行目後半からです。
  『カトリック教会が用いる「霊性」は、イエス・キリストをとおして与えられた救いの福音を、個々の人間がどのように受け止めるのか、そして、受け止めた福音によってどのように信仰を生きるかを表わすことばです。』
  ですから、キリストのことばをどのように受けとめ、どのように生きるかというのが霊性なのです。同じく14nの下から5行目には、
  『とくに、長い迫害と殉教、潜伏という日本の教会独自の「信仰体験」は、この地方教会の霊性の基礎をなすものです。』とあります。
  なるほど、と、私は本当にこれを読んで思ったわけです。
  次いで、16nの下から6行目から読んでみますと、
  『それは、日本人として福音を受け入れ、その道に従って歩み、やがて信念を貫いて殉教した多くの信者たちの信仰の出来事が、日本の教会の霊性の源泉だからです。』
      ここでも同じことを書いているのです。それを背景に、今から私の、特に先祖の話をしてみたいと思うのです。その中で、ああそうかと思っていただける面があったら、私も自分の先祖の良いところも悪いところもさらけ出す価値があると思っています。

 この小冊子の17nの第1日目の祈りをつかって、祈りながら進めて行きたいのです。第1日目の「殉教を現代に生きる」ということで、話を進めているというふうに理解してください。
  まずは、ヨハネによる福音書の12章24節から26節です。
  『「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」』
  この箇所が第1日目のお祈りの聖書の箇所になります。そして、解説のところでは、17nの一番下の行から18nにかけて、
  『「転び証文に署名を求められたディエゴ加賀山隼人は、決してそれはできないと、主君の細川忠興に答えています。彼の娘みやの夫、小笠原玄也は「忠興様、あなたが何と仰せになっても、わたしは転ぶことは出来ない」と宣言しています。不退転の意志をもってイエスに従う生き方を選ぶこと、これが殉教です。」』
  というふうになっております。そして、途中を省略して、18nの最後の行、
  『人生の区切り区切りに神に頼る選択を必ずしなければなりません。』
  決して自力に頼ってはいけないということが、その前の段落の最初、18n下か

   

ら8行目にあります。
  『「二つのことを覚えなさい。一つは、決して自力に頼ってはいけないこと。この世の風評をもとに考えてはいけません。ただただ神様のみわざのみをまず想い、次いで自分の魂のこと、そして天国に至る道のことを考えなさい」(マルチリオの心得)。』
  また、18n上から5行目には、
  『わたしたちも不退転の意志で毎日の生活を生き、必要に応じてはっきりと自分の信仰を表明しなければなりません。』とあります。
  やはり、この殉教者たちの生き様を、私たちにも霊性として受け継いで行くようにと勧めているわけです。
 
  それでは、今日の本論に入ります。
  主な話として、皆さんにぜひ聞いていただきたいことは、“信仰伝達“というものです。どれだけ大切であるかということを、幾らかでも感じていただければと思って話すのです。皆さまの資料の中では、資料Bになっていると思います。
  『資料B 前田家の信仰遺産』
  これは私の出身教会である仲知教会の百周年記念誌に何か書いほしいと言われ、特に、前田家の信仰について書いてくれと当時の主任司祭から言われて書いた文章です。全部読むことは出来ませんが、この中で、本文5行目です。親から語り伝えられた前田家の改宗について、ここでも少し触れております。これに関連して、
  『資料Cパリ外国宣教会 ローマ本部への宣教報告書 年次報告2』
  の資料とともに、資料Bと資料Cを交互に使って話をしてみたいと思います。

   

 前田家といっても、私は「前田」ですが、私の母は「谷口」と言って、その谷口の母が「白浜」といいますので、白浜家の信仰のことも後で話しますが、父方の先祖は、久賀島の紙村家なのです。そのことも話したいと思います。その中で、まず前田家の話をいたしますと、実は、パリ外国宣教会 年次報告が訳されまして、何人もの神父様から「前田神父様、これはあなたの先祖の事ではないか」と言われ、調べて読んだところ、まさに、ローマ本部に報告されている記事があったのです。これは、そのままのコピーではないのですが、本所教会の事務局が打ち直してくれまして、この様な形になっています。

 『資料C
  パリ外国宣教会 ローマ本部への宣教報告書 年次報告2 1901年「長崎」より抜粋

 『・・・前略)
  教会の懐に戻った相当数の「離れ」に付け加えてペリュー師はある島の土着の異教徒の真の改心について記している。
  それまで、この島では、キリスト信者は侮辱され悪口を言われるだけであった。ヨゼフ前田梅太郎は25歳の大工で数回、信者の家で働く機会を持った。彼は幸いにも彼らの生活状態や彼らの模範的行いに感動し、聖寵の助けもあり、彼は教えを受け入れようと決心した。しかし、大問題が起こった。島の住民、両親、妻らが彼の敬虔な計画を実行させまいと反対し、彼も争いは大変なものだと理解した。彼の決心は堅く、その家族に信者になると告げた。忠告、脅迫、妻から見捨てられ、一人子もとられたが、それでも何も彼の決心をゆるがすことは出来なかった。

   

  ある日、彼は仲間から殴られた。仲間は彼が宣教師に買収されたと信じ、その上で、彼が受けるだろう金を取ろうと要求した。彼らは彼の改心の賠償としてそれを考えた。しかし、彼は少しも反対者に恨みを抱かなかった。現在、彼は父の家から追われ、妻も子も見ることが出来ず、彼らが帰ることを望むことも出来なかった。これらの総てのことも彼の洗礼を望むことの妨げにならなかった。神に信頼して彼はこの島を去ることを決心した。その後、彼は貧しい生活をし、その模範となって勤勉さをもって救いの道へと導いた。種々の動揺があったにもかかわらず、彼は堅固に持し、六島、小値賀の異教徒の前でカトリックの教えを力強く守った。
  (後略・・・』

 このように報告がなされているわけです。
  『ペリュー師』は、よくペルー神父さまとも言われている方です。『教会の懐に戻った相当数の「離れ」に付け加えて』の「離れ」というのは、隠れキリシタンの人たちのことです。この復活キリシタンの時代に教会に戻ってきた人たちのことです。「に付け加えて・・・記している。」というのは、隠れキリシタンのことではなくて仏教徒の改宗のことです。
  また、『ヨゼフ前田梅太郎』となっていますが、本当は「峯太郎」なのです。横文字で書くときに、「峯太郎」が「梅太郎」というふうになってしまったのでしょう。
  そこで、資料Bに戻りますと、次は、私が父から聞いた言い伝えのことです。資料Bの真ん中あたりになります。
  『しかし、大問題が起こった。「親からは、キリシタンと結婚するってけしからんと勘当され、仲知に逃げてきたが、六島からは、峯太郎狩りといって、若い衆が十人ほど、仲知に乗り込んで来て、捕まえて懲らしめてやろうと捜し回った。しかし、

   

仲知の人達が、芋窯や屋根裏にかくまって、助けてくれたお陰で見つからず、十人衆もあきらめて帰った。その後、仲知の人達が少しずつ財産を分けてあげて、貧しいながらも信者生活をはじめた」(父・年増談)。』
  私の父からは、小さい時からこういうふうに聞かされていたのです。パリミッション会の年次報告とは少し違うところがあります。報告書では既に結婚していたということです。
  仲知というところは、それこそ「知る仲」と書くとおり、キリストを知っている仲、全員がお互いに知っている仲であるという具合です。私が小学生の頃、仲知というところは、中学校の校域、小学校の校域の総ては、カトリックの信者だったのです。学校の先生は赴任してきますから、その子供か、あるいは私たちが小学生の頃はお医者さんがいましたから、そのお医者さんの子供だけが仏教徒で、地域に居ついている人たちは全部カトリック信者だったのです。昔からです。キリシタンが大村藩から居ついた時から、ずっとその地域はキリシタンばかりです。
  黒島というところでも似たような話があります。今度の世界遺産暫定リストの中に、宝亀(ほうき)教会という教会が含まれていますが、この教会を建てたのは鉄川与助(てつかわよすけ)さんではなくて、柄本庄一(えのもとしょういち)さんといいます。この柄本庄一さんも大工で、佐世保の前の海にあり、キリシタンの島といわれている黒島に教会を建てに行って、その時に、洗礼を受けキリシタンの娘と結婚しました。1873年の洗礼台帳に載っています。
  ただ、仲知教会に残っている洗礼と結婚の台帳を見ますと、私の祖父になる峯太郎という人は、1901年8月6日に洗礼を受けて、結婚は1902年6月13日になっているのです。パウロの特権(信仰擁護のため信者との再婚が許される)が適用され、再婚しいる様子です。色々なことがあって、後で六島(むしま)というところから

   

、子供をひとり養っているのです。そして、私の父たちと同じ兄弟・姉妹として育っている。どうも六島に一人残していた子供を、後で養ったのではないかと思います。その六島というのは、後で出てくる、旧野首(きゅうのくび)教会のある野崎島のすぐ北に、小さな、本当に「ひょっこりひょうたん島」みたいな島があります。そこが六島というところです。
  それから、資料Bの一番終わりの段落ですね、
  『そして、何よりもその後の二人の信仰生活が真の改宗であったことを証明している。「命がけでしかも仲知の人達のお陰で前田家がカトリックになったのだから、感謝のために、子供から神父を誕生させよう」と、前田朴神父ができ、不肖私もこの祈りに支えられ、励まされて司祭職に召され、真浦健吾神父も三代目として頑張っている。
  峯太郎爺さん、信仰の遺産をありがとう。』
  なぜこういう記事を書いたかと言いますと、いつも、仲知のキリシタン達のお陰で前田家は信者になって、ここにこうして財産を築いたのだと、いつも父から教えられていたからです。その時に、いつも祖父の峯太郎の苦労をずっと聞かされていたのです。六島では親に勘当されるし、若い衆からは峯太郎を連れ帰って懲らしめてやろうと捜し回られたこともあったのです。それを仲知の人達が「芋窯」に隠したりしたのです。「芋窯」って分かりますか ?。家の下に土を掘って、今の冷蔵庫のようなものですね。薩摩芋か麦ぐらいが主食でしたから、それを保存するところが昔はあったのです。現在もあるかも知れませんが。また、屋根裏といって、麦の藁を積んで、これも保存する場所だったのですけれども、そういうところに隠したりして、ずっと、匿ってくれたお陰で、若い衆もあきらめて帰ってしまったそうです。その後、財産を少しずつ、いろんな人から分け与えていただいて前田家が

   

出来たというのが、私の前田家の改宗のことです。ここの一番終わりに書いてありますように、本当に仲知の人たちに感謝していたらしいです。
  ですから、感謝のため、自分の子供からひとり神父をつくろうと思ったそうです。私の伯父が、もう亡くなりましたけれども、前田朴(まえだすなお)神父が、大阪教区で神父になり働いていました。実は、私の父も神父になりたくて神学校に入っていたのです。でも、前田朴神父が司祭叙階されたのを見届けて、私の父は、せっかく仲知に前田家が出来たのだから、家を継いでもらわなければいけないという母の願いで戻ったのです。しかし、それでも神父になりたくて、修道会の門を叩いてやっと入れてもらったのに、また母殻連れ戻されて、とうとう神父になれなかったのです。
  ですから、今度は、私の父も自分の代わりに、自分の子供から神父になってもらおうと思ったのでしょう。私は長男なのですけれども、長男から次男、三男、四男までを神学校に入れたのです。私は11人兄弟なのですけれども、私が神父になりましたら、弟たちは安心してしまって、みんな辞めてしまったのです。そんな感じで、ひとりずつは神父になっています。そして今度は、孫になる真浦健吾(まうらけんご)[現浦頭教会(44歳)]神父がおります。私の従姉の子供になるわけです。今、三代は続いているのです。このようなことも、ひとつの信仰伝達、前田峯太郎という祖父の改宗を通しての信仰伝達だと思うのです。
  今までの話が前田家の改宗です。そして、今度は資料Bの前から4行目に戻りますけれども、紙村家の殉教です。
  紙村家の「紙」の字は、本当は「上」の字を書いていたのです。ところが、なぜ「紙」の字にされたかといいますと、これも差別なのです。キリシタンが上様の「上」の字をつけるのはけしからん、燃えてしまう障子紙の「紙」にしろということで、「紙

   

」の字に変えられたのです。また、ある地域では、苗字を付ける時に、「下」の字を苗字の頭に付けさせられたとか。こんなこともあったわけです。この紙村家の殉教は、資料B本文前から5行目にあります。
  『久賀島教会発行の「信仰の碑」によると、紙村ヨノの父・年松は21歳の時、母・ヨネと4人の兄弟、4人の妹ともども久賀島の牢に入れられた。そして、3人の妹(19歳のマダリナ・ノイ、9歳のカチリナ・ソメ、5歳のナヨ)は牢死し、只今、42人の牢死者として列福調査がなされている』。
  私がこの記事を書いた頃は、列福調査をしていたのです。けれども、さきほど言いましたように、特に時代的な背景のために、明治の殉教はまだまだ先にならないと手が付けられないということで、ふるい落とされてしまいました。しかし、最初は調査が始まっていたのです。
  これは、五島でも一番酷い明治の殉教として、特に、「五島キリシタン史」(浦川和三郎著)の中でも紹介されております。1865年に信徒発見がありました。その前から言いますと、1797年に、五島藩が大村藩に千人ばかり五島に移住をさせてくれないかと申し出をしました。理由は土地があるからということでした。大村藩は人口過剰になっていましたので、当時は過酷な産児制限までしておりました。子供は長男だけ育てて、次男、三男は捨てろということになっていたのです。こういうことがあったこと、皆さん知っていましたか ? 昔は、特にそういうのがあったので、捨て子が多かったのです。「捨て子」という言い方は、これも差別用語かも知れません。昔の洗礼台帳は、平戸あたりでもそうですが、1870年前後の洗礼台帳は、親の、そのまた親の、というように名前が、三代に渡って書いてあるのです。ところが、緊急洗礼台帳というのは、親が分からないものですから、全部「捨て子」と書いてあるのです。つまり、貧しくて育てることが出来ないので、捨てられていたの

   

です。誰かが拾って養ってくれれば、というふうな感じなのです。ですから、五島にも養護施設がありますけれども、有名な奥浦慈恵院と希望の灯学園は、パリミッション会の神父様たちが、そういう子供を、それこそ昔は悪い言葉ですけれども、「ひろって」育てたとか言っておりました。それは、救済です。救済して育てていたのです。
  1797年当時、大村藩ではそういうことが行われていたが、キリシタンだから、次男、三男を捨てるわけにはいかない。これも信仰はもちろん、愛といのちの問題、倫理、人権問題なのです。それから逃れたい、信仰なども守れるところに行きたい。ですから、五島へ五島へと、皆で行きたがったわけです。そして、千人どころか三千人も行きましたから、今度は五島が溢れて、上へ上へと移動して、最後は平戸の方にまで行ってしまったわけです。そのようにして、五島の方に住み着きました。
  私の祖父・前田峯太郎と結婚した紙村ヨノの父・年松は21歳の頃、久賀島のキリシタン牢に8か月間入っていました。「六坪牢」というのですけれども、六坪というと畳12畳です。それを半分に仕切って、男子と女子とに分けられて、200人余りが閉じ込められていたのです。立つのも難しい。子供なんかは間に挟まれて宙ぶらりんだったと言われています。ですから、力尽きた子供とか、年寄りは、そのままずり落ちて、床は足の踏み場もない状態ですから、踏みつけられ、死んでいくのです。そのまま、死体が放置されるという状態が続きます。本当に酷い状況なのです。
  それだけではなくて、時々、牢から出されて、「算木責め」「水責め」「火責め」です。「算木責め」というのは、丸太を四つ切りにして、尖ったところに膝を立てさせられて、その上に石を乗せられるのです。もっと酷いのは、足首と太腿の間に小さ

   

な丸太を差し込んでゆさぶられるのです。口からどんどん水を入れられたりとか、両足を縛られて、船で海の中を引きずり回されたりされたそうです。色んな、本当にありとあらゆる残虐な責苦を受けているのです。その中には子供たちもおりました。食べ物も、一日、薩摩芋が朝と晩一個ずつだけだったといわれています。主な人たちは2年余り閉じ込められました。これらのことを話しますと、これだけで何時間も掛かりますが・・・。
  紙村家の殉教というか、そういうような話をいつも聞いているのです。私の曾祖父は、牢より解放されて出るには出たのですけれども、家に帰りましたら、ただ建物が建っているだけです。屋根と壁があるだけです。家財道具は全部仏教の人たちなどに取られてしまって何もないのです。当時から味噌があったらしいのですけれども、そういうものまで、全部、隠しておいたものまでも全部取りあげられてしまいました。農耕のための道具から、食事を作るための器具から食べ物まで、本当に何もかも無くなっていたのです。ですから、山に行って、木の根を掘って食べたりしながら生きたのです。それでも生活できなくなりましたから、今度は、上五島の仲知の方に移住したのです。五島の海を知っている人でしたら分かるでしょうが、満ち潮の時は下五島の方に、引き潮の時は上五島の方に潮が流れるのです。それを利用して、久賀島は五島藩、仲知は平戸藩ですから一方で迫害が酷くなると、潮に乗ってもう一方の方に逃げたり戻ったり、また、行ったり来たりして、交流した形跡があります。ですから、久賀島と仲知には親戚がいたりとかするのです。
  次に、白浜家の信仰というのは、これも浦川和三郎司教様の「五島キリシタン史」にも紹介されておりますけれども、『野首の母方曾祖父・岩助は、平戸牢の責め苦で、手首には綱痕が死ぬまで残っていた』のです。野首教会は、長崎新聞の17面の一番右上に写真が載っています。今はもう、こんな風景になっております

   

けれども、
  『資料A カトリック中央協議会 会報 2000年2月号・通巻433号 巻末コラム─でざあと─ より』のなかに、
  〜山歩く 鹿と聖堂の 見ゆるまで〜
  という句があります。これは、私が初めて白浜家の先祖である野首教会を訪ねた時の、巡礼の感想を書いたものです。へたな俳句とか短歌を交えて書いているのですが、
  〜山歩く 鹿と聖堂の 見ゆるまで〜
  〜谷川の 水をもとめし鹿のごと 神を慕いし先祖らの聖堂〜
  〜五島五島へ みな行きたがる 夢に見る五島は天国 行ってみて地獄〜
  〜今は亡き 松の梢や先祖の声 永久に光は渚の白砂〜
  この中で、特に「五島五島へ みな行きたがる 夢に見る五島は天国 行ってみて地獄」の段落をちょっと読んでみますと。
  『  数々の人権侵害からの解放を求めて五島へ。天国と夢見たが、行ってみて、人権侵害は輪をかけたように、まさに地獄。野首のキリシタンたちは、平戸藩ゆえ平戸牢での数々の責め苦を耐えた。そしてついに、1908年に信仰の証(聖堂)を建てたのである。来年は、献堂100周年だ。
   昔、野首教会の南北東西には、松の並木が大きく広がり松風の音を響かせ、枝ぶりのよい松の下には人が集まって、海を見ていたという。わたしの曾祖父・岩助爺は手首の綱痕をさすりながら、遠く水平線に浮かぶ平戸島でのキリシタン牢生活のことを語って聞かせたという。教会真下には、今でも天国をイメージするかのように純白の砂浜が渚に光り、海は遠くまで濃紺に広がっている。信仰は保障されたが、自給自足が困難になり、もう40年前に無人となった。教会堂は県文化

   

財として保存されているが、これからは何をもって信仰を証しするのか。』とあります。
  私が去年の3月まで住んでいた、平戸ザビエル記念教会がある平戸市の現在の市長さんは、この野首出身の、白浜というのです。野首の人たちは、みな苗字が「白浜」というのですが、教会の下に、本当に純白の砂浜があるのです。新聞に載っている写真でも分かると思いますが、この青いのが海です、その向こうに微かに平戸島が見えているのです。お父さんが野首出身で、いまの白浜 信(しらはままこと)平戸市長さんは、台湾で生まれたそうですが、こちらに戻ってきて、終戦後にまた、野首教会で小学生時代を過しているのです。
  20年ぐらい前、私が宝亀教会の主任司祭をしている時に、「信仰の証」という教会記念誌を作りました。当時の平戸市長の油屋亮太郎市長さんのところに献呈に行って、「市長さんここを見てください。私の曾祖父・岩助爺が平戸の牢でどういう迫害を受けたか、詳しく書いてあります。」と言って読んでもらいました。算木責めとか寒ざらしとかを受けているのです。それを見せたら、市長さんが酷いことをしたと謝ってくれたのです。ところで、現在の白浜信平戸市長は3期目か4期目でしょうか。この白浜平戸市長自身こそ、その迫害された子孫であり、いま平戸の市長をしているのです。これも神がなさる「不思議なわざ」でしょうか。
  次いで私が言いたいのは、殉教者といっても、確かに、生身の人間です。実際、私の先祖の白浜岩助爺は、あまりの苦しさと恐怖心から「キリシタンを止めます」と言ったのです。そして牢を出て、帰りました。野崎島の野首に帰りました。もうやめますと言ってです。要するに「転び」です、転んだふりをして帰ってきたのです。でも、帰ってきてから、「宗戻り」といいますけれども、私たちはやはりキリシタンに戻りますと言ったのです。そして、そういう苦しい生活の中で、本当に生活の

   

糧を求めるのも苦しいその中で、百年前にこの素晴らしい煉瓦造りの教会を建てたのです。「罪ほろぼし」のためでもあったのです。来年、献堂百周年です。そして、ずっと自分が迫害されたこと、転んだことを、そして自分が罪の意識に責められたことを、また、教会を造る時の苦労を、ずっと子供たちに、親戚に話しています。そして、その話を私の母たちが聞いているから、私にまたその話をしたりするのです。一番身近な先祖から伝えられ学びます。どんなことがあっても最後は信仰の決断をしなければいけないのだと。
  たしかに、その時は転んだ。けれども、ペトロだってそうでしょう。私はキリストを知らないと、そんな人は知らないと言ったのです。しかし、最後は殉教したのです。ですから、人間的な弱さのために、いまの私でもそうかも知れません。本当に、あの当時のような迫害が、命を取られるような迫害がもし起きたら、もしかしたら転ぶかも知れない。でも、最後の最後には、やはり、ペトロは否みにも増して宣教し、殉教していったのです。
  私は資料@の、『聖書に親しむ 2006年聖書週間』のパンフレットの2nにも書いておりますが、「わたしを愛しているか」、その都度「わたしを愛しているか」と問われるはずです。それで転んだとしても、それにも増して、また「愛しているか」と問われるのです。司祭としても、色々な時に、この野郎と思う時も、喧嘩をしたくなるような時もあるのです。でも、そんな時に、やはり「わたしを愛しているか」と、問われているような気がするのです。ですから、岩助爺も若い時には、もう信仰を捨てますと言ったかも知れないけれども、一生をかけてその償いをして、そして、一生をかけて信仰を証した。そして、最後は、本当に殉教と同じだと思います、そういった意味では。永遠のいのちに入るための一つの道だったと思います。
  資料@のパンフレット2nの最後には次のように書きました。

   

  『イエスは、誰にでも、(中略)様々な出来事の中で、「わたしを愛しているか」と問い続けている。それが愛の交わりへの招きであり、広い意味での殉教(愛の証し=司牧・宣教)を通しての、神の愛の交わり(救い)への恵みと信じたい。』と。
  ですから私も、『前田家の信仰遺産』の中で書いておりますけれども、「なぜ信者にしたのか」。五島弁で言えば、「どうして俺ば信者にしたとか」「洗礼ば授けたとか」「俺ばなんで神学校にやったとか」って言って、親子喧嘩をしたこともあります。苦しい時はやはり言いたいのです。だって、人が遊んでいるのに、公教要理を一生懸命に勉強しなければならなかったりするわけです。教会でも、仲知というところは、毎朝のミサに来て、初めて普通の少年なのです。日曜日ではないのです、毎日の朝6時からのミサにです。寒い日も、雨の日もです。その毎日のミサに、一週間のうち、一日休んだだけでももう「不良少年」ですよ。本当にそういう所でしたから、「なんで信者にしたとか」って言いたくなります。
  神父になるのも色々と誘惑はあるし、苦しいし、そんな時は「なんで俺を神学校にやったとか」って言いたくなりますよ。でも、父の思いは、自分のかわりにという思いがあったわけです。それで、神父になって今わたしが感じることは、本当に信者であって良かった、本当に神父になれてよかったと、本当に、心から思うわけです。ですから、今は亡き父に対して、感謝の気持ちでいっぱいです。もちろん、また、先祖に対してもです。父からも母からも、そういう先祖の話を聞くし、例えば、今日の資料には無かったのですが、もうひとつ、カトリック中央協議会の会報に出したものを持って来ているのです。これを最後に紹介して終わりたいのです、父自身の話と母自身の話をひとつずつして終わりたいと思います。
  まず母の話からです。私はこんなことを10月号の会報に書いています。
  「一番好きだった祈りがある。今も変らぬこだわりの祈りだ。夜中、母に『万葉、

   

お父さんば迎えに行って来い。』とか、『お父さんの焼酎ば買いに行って来い。』と命じられ、『化けもんが出て恐ろしかけん、行きとうなか。』とごねると、『何ば恐ろしかとか。父と子と(十字を切って)ばして、めでたし(聖母マリアの祈り)、天にまします(主の祈り)ば祈れば、化けもんはおらんごとなるけん。そげんときゃ、そげんせろ。』と、いつも言われた。早速、『化けもん』が出た。恐くて金縛りみたいになったが、やっとの思いで十字を切り、祈った。そうしたら本当にいなくなった。救われたのだ。」
  本当にそういう経験があったのです。田舎ですから。「化けもん」ばかり出てたんですよ。ほんとにね。そして、

  「十字架は 怖いものなし めでたしと 天にまします 祈ればなおに  
 
  この貴重な信仰体験は、父が焼酎飲みであったお陰だ。父は徒歩1時間余りの学校に勤務し、帰宅途中、焼酎付き合いをすることがあった。そんな時、母は、「お父さんば探しに行って連れて来い。」と、私に命じる。母が探しあてて「帰ろうで」と言っても帰らない。長男の私が「お父さん、帰ろうで。」と言うと、「おぅ万葉、連れに来たとか。よっしゃ帰ろう。」と機嫌よく帰ってくれるからだ。小学生の私にとって、山あり谷ありの夜道での恐さを助けてくれたお祈りが、この父と子と、めでたし、天にましますである。三つ子のたましい百までなのか、神父になっても、相変わらず苦しい時の神頼みみたいに、イエズス・マリアの呼称とともに、このこだわりの祈りばかりである。
  
    ありがたや イエズス・マリア 今もなお 十字とめでたし 天にまします」 

    これで結んでいるんですけれども。
  なぜ、父と子とをして、天にまします、めでたしをしろと何度も言うのか、私をごまかしておつかいに行かせるために言っているのかなぁと思っていたら、昔の宣教師たちが、それを言っているのです。迫害で本当に転ぶんじゃないかと心配な時は、十字を切って、天にましますとめでたしを唱えなさい。イエズス・マリアと言いなさいと教えているのです。パリミッション会の神父さまたちが教えているのです。それが、ずっと親から子に伝わって、私にまで伝わっていたのです。ですから、いざという時に、この祈りは本当に助かります。私も、金縛りにあったことがあるのです、1回だけ。その時に、もう駄目だと思ったときに、本当にやっと十字架が切れたときに、軽くなりましたね。やはり、信仰というのは、そういう伝達じゃないかと思います。
  もうひとつだけ、こんどは父の話をします。私が神父になる前、もう30年以上前ですね、父はある島の小学校に教員として勤めていたのです。そこは、ちょうどカトリックが半分、仏教が半分の学校だったのです。当時、長崎教区では、8月の夏休みを利用して堅信式がありました。島ですから、島から島へと渡って行かないと教会に行かれないところもあるのです。ちょうどその時は、有福(ありふく)島という所におりまして、有福小学校でのことです。
  ある時、堅信式がありました。そして、そこの本教会は、若松島の土井ノ浦教会で、そこに司教様が来て、8月の何日かが、堅信式の日になったのです。そうしましたら、学校の職員会議で登校日を決める時になって、その同じ日を、カトリック信者が堅信で絶対に行かなければならないその日を、わざと先生たちは職員会議で登校日に決めたのです。私の父は、ちょうど教員でもあるし、自分の子供は堅信式にやらなければならないし、自分も行かなくてはいけないし、その日だけ
    ははずしてくれと、願ったのです。カトリック信者には堅信という行事があって、土井ノ浦教会まで行かないといけないのですと。そう言っても、先生たちは絶対に譲らなかったのです。これはひとつの踏み絵です。踏み絵なのです。それで私の父は非常に悩んだのです。
  当時、私は、父が教員だった関係もあって、慶応大学の通信教育を受けていたのですけれども、その卒論に「現代日本における教育権論争」ということをテーマにしていました。私の霊名はトマス・アクィナスですけれども、そのトマス・アクィナスは、子供の教育権はまず両親にあるとはっきり言っているのです。ですから、ちょうど私もそういうことを勉強していて、教育基本法、福岡伝習館高校の教科書問題、家永教科書裁判とか杉本判決とか色々とあっていました。どこそこの高校で教科書を使わなかったとか、ちょうど論争があった時代だったのです。
  ですから、「親父、頑張れ。第一の子供の教育権は、親にあるんだから。親父は、先生ではあるけれど、まず、親でもあるんだぞ。だから、堂々と子供を堅信式にやって、自分も堅信式に行けよ。」と、私も尻を叩いて励ましました。そして、私の父は、子供たちと一緒に堅信式に与かって、登校日には行かなかったのです。もちろん、信者は誰も行かなかったです。学校の先生と仏教の人だけが、登校日に学校に行きましたけどね。ですから、私の父は、その頃は日教組も非常に盛んで、日教組にも入らなかった関係もあって、教員として、本当にいじめられていました。確かに。キリシタンでもあるし。でも、絶対に折れなかったです。登校日でも、教会の堅信式に子供たちを連れて行きました。そのかわり、相当、学校では圧力を受けていたようです。
  また昔、学校の教員住宅というのは、あまり良くなかったのです。私は11人兄弟で、家族がいっぱいいるから、普通の家を借りていたのです。そうしましたら、
    隣の家の人が、私たちがお祈りをするものだから、「やかましかー」と言うんです。父はそう言われても、ずっと夕の祈りを、子供たちを座らせて続けさせました。相手は玄関まで来て言うのです。「止めろー」と。その辺りは仏教の集落でしたからなのでしょう。それでも、私も、父と一緒に、大きな声で祈ったことを覚えています。
  このように、子々孫々、ずっと先祖から受け継いで、信仰というものを伝えていかねばならないと思います。そして、一番の宝物というのは、信仰の遺産だと思うのです。私が司祭になったからそう言うのかも知れませんけれども、やはり、そのように思います。ですから、長崎新聞にも「禁教・迫害・潜伏を経て復活を遂げた本県独特のキリスト教文化の精神性の高さが『世界史的価値』として評価された」と書いてあったので、もう涙が出てしまったわけです。いつかは本当に称えられる時が来る、認められる時が来ると励まし、励まされていたわけですからね。社会が精神文化として認めたわけですですから、私には特別な思いがあるのです。
  お祈りのうちに終わります。どうもありがとうございました。
 
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