日本26聖人殉教者祭 講演 トマス・アクィナス 前田万葉(まえだまんよう)師
1p〜29p |
トマス・アクィナス 前田万葉(まえだまんよう)師
|
『殉教者を想い ともに祈る』 前田師: |
天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。私たちの罪をおゆるしください。私たちも人をゆるします。私たちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。アーメン。
|
まに照らす)、「祈り」(あすに向けて宣言する)と記載されております。「学び」(過去の出来事を想起する)とは、殉教者たちの出来事です。「分かち合い」(いまに照らす)とは、私たちの生活に重ねて想うということ。そして、「祈り」(あすに向けて宣言する)とは、これは具体的な生活の目標を定め、殉教者の取り次ぎを願って祈ることです。この小冊子は、この三つの次元を踏まえた形式になっているということです。 そして、各テーマの構成というのは、現代日本の教会を方向付ける「霊性」を見いだすということが目的です。現代の私たち日本の教会を方向付ける「霊性」です。この「霊性」という難しい言葉は、後の方で出てきますので、そこで説明致します。 次に5nに行きますと、今日、トマス・エセイサバレナ神父様が、説教で、本当に良く説明して、分かりやすい説教をしてくださいましたが、この『「ペトロ岐部と187殉教者」の列福運動はどのようにして起こったか』というところですね。ここに、まず、日本には26聖人、そして、トマス西ら16聖人の合計で、今まで42人の聖人がいる。さらに205人の福者がいて、合わせて247人が殉教者として公認されているという説明があります。 今日は日本26聖人のお祝いです。この本所教会が毎年祝っているということです。私は長崎教区で31年間司祭をしておりましたが、東京教区で一番知っていたのは、この本所教会でした。なぜかと言いますと、日本26聖人の殉教祭をいつも盛大に祝っていることを、カトリック新聞の報道、広告、ポスターなどでよく見かけていたからです。 しかし、私は、日本26聖人と言いますと、長崎の殉教祭だと思っていたぐらいです。実は、私は五島列島の出身ですけれども、それも上五島の、「五島の果てなる北の端」といわれる一番北端の方です。本当に、東と西が、右を向いたら東に |
五島灘、左を向いたら西に東シナ海というぐらいで、険しい、小高い山があって、真ん中に立つと、両方がよく見えるのです。そういうようなところですから、長崎まで行くのにも、私が小学生の頃、8時間も船に揺られて行っておりました。長崎に行くのは、一年に一度どころじゃなくて、確か小学生を卒業するまでの間に、2,3回行ったのかなぁと思います。それも、日本26聖人殉教祭のために、西坂の殉教祭に行った、その記憶しか長崎に行った思い出はないほどです。そして、そこで、当時の山口愛次郎(長崎・浦上出身(1946〜1976))大司教様が司式して殉教祭を盛大にやるその姿、今で思えば、ローマに行ってごミサに与かっているような、そういう崇高さを感じていました。それこそ、パパさまを見たというぐらいの感激をしたことを覚えております。 そのような印象がありますので、東京で、日本26聖人の殉教祭をする教会があるんだなぁ――と、いつも報道を読んだり見たりしておりました。だから、この本所教会という名前はよく知っておりましたし、初めて訪れて、本当それに相応しい教会だなぁと思って、喜んでおります。 また、私が6,7年位前に勤務していた、長崎県北松浦郡、現在は平戸市に合併した、田平(たびら)教会を想います。以前は瀬戸山天主堂──平戸瀬戸の山の手にあるので──と言われ、「ミレーの晩鐘」の風景にぴったりの煉瓦造りの天主堂です。今度の、世界遺産の暫定リスト入りした教会の中のひとつでもありますが、その教会が、やはり日本26聖人に捧げられております。 建設当時の、中田藤吉(五島・鯛之浦出身(1872〜1956))という有名な神父様が日本26聖人に捧げたのです。その理由が、この教会から必ず26人の神父を作るという目標を立てて、献堂したと言われております。当時は、その教会を造るだけの熱心さが有りましたので、1年に2人とかの時もあるなど、どんどん司祭が誕生し、毎年のように続いた時もありまして、最初の50年ぐらいのうちに、20人余りが |
司祭になっていました。私が主任司祭の頃に、21人目か22人目が25年ぶりに誕生しました。長崎教区といえども25年ぶりだったのです。二十数人の神父が出ていた教会が、25年ぶりに新しい神父が誕生したというぐらいに召命不足が、本当に叫ばれております。 長崎教区を見ても分かるのですが、本当に熱心な小教区ほど、司祭・修道者を多く生み出しているという現実は、明らかです。この小冊子にも同じ内容が出て参ります。また、この本所教会からも、十数人の司祭が誕生していると聞いて、ああやはりねと思います。私も、そういう意味からも、非常に印象深く感じました。 この26聖人の中には、五島出身のジョアン五島という聖人がいます。ですから、地元のこのジョアン五島という聖人のことを、いつも聞き、そして、いつも26聖人の聖歌を歌って、本当に尊敬を表わしておりました。私の出身の、上五島、現在は新上五島町(しんかみごとうちょう)になりましたが、仲知(ちゅうち)という教会は、このヨハネ五島に捧げられております。26聖人についてはこのくらいにいたします。 また、16聖人については、私が18年ぐらい司牧をしておりました、長崎教区・県北地区の生月(いきつき)というところを想います。今度の188殉教者の中にも「トマス西玄可とその家族」が入っておりますが、既に聖人になった「トマス西」という神父様は、生月出身の同じ家族なのです。今度、列福予定のガスパル西玄可のお子さんになります。ガスパル西玄可さまの殉教地は、本当に粗末な、ただ石の祠があるだけのお墓でしたけれども、このトマス西の16聖人列聖式の頃に、本当に盛り上がって、記念碑と大きな十字架が建って立派になっております。元の粗末な石の墓に生えていた大きな松が、その頃、枯れかかっていたこともあって、16聖人の、息子さんの列聖式に、その松の木を切り倒して、大きな十字架を作り、教皇さまに奉納したという出来事がありました。16聖人には、そういう想い出があり |
ます。 また、205福者には、カミロ・コンスタンツオ神父様がいます。やはり、県北地区で捕まって、火あぶりの刑になり、その時には、平戸瀬戸に船が出て、この殉教の様子を見物したそうです。その見物人たちに向かって、カミロ・コンスタンツオ神父様は、説教をしたとのことです。説教をしながら、火あぶりの刑で殉教していったのです。焼く罪と書いて、焼罪(やいざ)殉教祭が、今でも毎年行われています。また、西玄可の殉教地でも、ガスパル様の黒瀬の辻殉教祭が行われております。 そのような殉教者たちを、今日は想って、祈るということです。「公認された殉教者」ということについては、次の6nにありますが、下のほうですね。 「候補者はどのようにして選ばれたか」と、下から4行目に大きな字で書いてありますけれども、その2行上、 「1630年台の厳しい迫害の時代に殉教した代表的な人物に焦点を当てました。」とあります。 今回もそうですけれども、1630年代の殉教者、とにかく古い時代の殉教者たちだけが公認されております。今日、説教されたエセイサバレナ神父様もおっしゃっておりましたが、殉教者は、本当は何万人もいるのです。 そして、今度のペトロ岐部と187殉教者の列福運動の最初の段階では、まだ時代も決めずに、色々な調査をしようということだったようです。後でお話しますが、私の先祖が殉教した五島列島の久賀島(ひさかじま)のこと。五島列島の一番下の島が福江島で、その上にあるのが久賀島です。この久賀島の殉教というのは、明治時代の殉教として有名な殉教で、そして、本当に悲惨な、酷い仕打ちを受け、42人も牢死しました。本当は39人ですけれども、解放された直後に亡くなった人も入れると42人が牢死したのです。 その中に、私の先祖もいたのです。明治時代ですからそう遠くはないのです。私 |
の祖母の父ですから、曾祖父になるのでしょうか。紙村年松といいますが、21歳で入牢していたのです。その時、大家族でしたから9人一緒に捕えられて牢に入れられ、そのうち3人が牢死しています。その人たちは、時代的に振り落とされていって、ペトロ岐部と187殉教者だけに絞られ、今度の列福が予想されているわけです。そのようなこと説明いたしまして、また、できるだけ全国を網羅しているということなどを付け加えまして、 次に8nに行きます。上から6行目、7行目にかけて生月の西一家のことも出てきます。そして、10行目に行きますと、 「一つの信念を貫いて生きるとはどのようなことかを読む者に問いかけます。」 さらに12行目、 「信仰を次世代に伝えることに成功しているとはいいがたいいまの日本の教会に、考える多くの材料を提供しています。」 このことを思い巡らすための、話になれば良いなぁと思っております。つまり信仰伝達のことです。 やはり、殉教者を想うということは、本当にそういう信仰伝達のことを思わざるを得ないということです。 次は11n。これも全く同じことを言っております。11nの下から6行目から読みますと、 「家庭の大切さは何度繰り返してもよい現代の課題です。現在の日本に生きる熟年の信徒の中には、自分たちの信仰を次世代に伝えられなかったと、胸を打つ人が多いと思います。」このようなことも念頭に入れながら、私の先祖の話をしますので、お聞きくださればと思います。 そして、13nに、「結び」としたところを読んでみますと、 「ペトロ岐部と187殉教者の列福を目前にして、わたしたちは胸を張り誇りをもっ |
例えば、ここに「五島キリシタン史」(浦川和三郎著)の本を持って来ておりますが、この本の一番最後のところに、「五島キリシタンに告ぐ」として、浦川和三郎(長崎・浦上出身(1876〜1955))司教様が、(五島のキリ シタンが迫害されていた、あるいは、これを書いた当時も、まだまだ差別されたり、いじめられたりしていた、)当時の五島のキリシタンに対して励ましの言葉を書いているのです。とにかく今は蔑まれたりしているけれども、きっといつかは認められて、そして、尊敬を受けるときが必ず来るというふうな励ましの言葉を、書いているのです。浦川和三郎司教様ばかりではなく、1900年代始めに五島の各地を司牧していた古い神父様たちも、各小教区を司牧しながら、信者を励まし、言葉としていつも語っていたみたいです。この長崎新聞にも、そのことが書かれているのです。17面の一番下のあたりにも「厳格な保存管理計画を」という見出しのところに載っています。 『「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」(県と五市二町の共同提案)について、文化庁がユネスコの「世界遺産暫定リスト」の追加候補に決めた背景には、禁教・迫害・潜伏を経て復活を遂げた本県独特のキリスト教文化の精神性の高さが「世界史的価値」として評価されたことがある。』(長崎新聞2007年1月24日号より)と。 この「精神性の高さ」が評価されたのです。今は差別用語になるかも知れませんけれども、少なくとも私たちが子供の頃でさえ、耶蘇とか、ボサとか、切支丹とか言われ差別されていたわけです。そういう禁教にもかかわらず、迫害にもかかわらず、潜伏をして、そして復活を遂げた。この復活のころに明治の大迫害もありましたけれども、このキリスト教文化、精神性の高さです。つまり、今で言えば、「信教の自由」です。人権的な確信です。ですから、殉教者というのは、ただ犯罪人などとして殺されたのではなく、本当に、人権を証しした、信教の自由を証しした、まさに愛と平和と人権の証し人です。殉教というのは、確かに証しのことで、 |
今日も、エセイサバレナ神父様がお説教で言っておりましたが、とにかく態度、どういう生き方をしたかということが大切なのです。この記事を読んでいて、涙が出たのです。そのために、皆さんにも参考として、読んで欲しいと思いましたから、聖堂の壁に貼ってもらうという形になったわけです。 それから14nからの「日本の教会の霊性」というところです。私が今日、前田家の信仰遺産というものをプリントして配っておりますが、それは決して私の先祖の自慢をするというつもりは毛頭ありません。それを書いた説明は後でいたしますが、今の私の司祭としての霊性というものは、確かにそれはキリストの言葉から出てくるべきものです。同時に自分の先祖や両親の生き方というものが、今の自分を生かしている。だから、それらが私の霊性になっていると私は思っているのです。ここ14nのタイトルの下に「霊性とは」とありますが、本文の上から4行目後半からです。 『カトリック教会が用いる「霊性」は、イエス・キリストをとおして与えられた救いの福音を、個々の人間がどのように受け止めるのか、そして、受け止めた福音によってどのように信仰を生きるかを表わすことばです。』 ですから、キリストのことばをどのように受けとめ、どのように生きるかというのが霊性なのです。同じく14nの下から5行目には、 『とくに、長い迫害と殉教、潜伏という日本の教会独自の「信仰体験」は、この地方教会の霊性の基礎をなすものです。』とあります。 なるほど、と、私は本当にこれを読んで思ったわけです。 次いで、16nの下から6行目から読んでみますと、 『それは、日本人として福音を受け入れ、その道に従って歩み、やがて信念を貫いて殉教した多くの信者たちの信仰の出来事が、日本の教会の霊性の源泉だからです。』 |
ここでも同じことを書いているのです。それを背景に、今から私の、特に先祖の話をしてみたいと思うのです。その中で、ああそうかと思っていただける面があったら、私も自分の先祖の良いところも悪いところもさらけ出す価値があると思っています。
この小冊子の17nの第1日目の祈りをつかって、祈りながら進めて行きたいのです。第1日目の「殉教を現代に生きる」ということで、話を進めているというふうに理解してください。 |
ら8行目にあります。 |
前田家といっても、私は「前田」ですが、私の母は「谷口」と言って、その谷口の母が「白浜」といいますので、白浜家の信仰のことも後で話しますが、父方の先祖は、久賀島の紙村家なのです。そのことも話したいと思います。その中で、まず前田家の話をいたしますと、実は、パリ外国宣教会 年次報告が訳されまして、何人もの神父様から「前田神父様、これはあなたの先祖の事ではないか」と言われ、調べて読んだところ、まさに、ローマ本部に報告されている記事があったのです。これは、そのままのコピーではないのですが、本所教会の事務局が打ち直してくれまして、この様な形になっています。 『資料C 『・・・前略) |
ある日、彼は仲間から殴られた。仲間は彼が宣教師に買収されたと信じ、その上で、彼が受けるだろう金を取ろうと要求した。彼らは彼の改心の賠償としてそれを考えた。しかし、彼は少しも反対者に恨みを抱かなかった。現在、彼は父の家から追われ、妻も子も見ることが出来ず、彼らが帰ることを望むことも出来なかった。これらの総てのことも彼の洗礼を望むことの妨げにならなかった。神に信頼して彼はこの島を去ることを決心した。その後、彼は貧しい生活をし、その模範となって勤勉さをもって救いの道へと導いた。種々の動揺があったにもかかわらず、彼は堅固に持し、六島、小値賀の異教徒の前でカトリックの教えを力強く守った。 このように報告がなされているわけです。 |
仲知の人達が、芋窯や屋根裏にかくまって、助けてくれたお陰で見つからず、十人衆もあきらめて帰った。その後、仲知の人達が少しずつ財産を分けてあげて、貧しいながらも信者生活をはじめた」(父・年増談)。』 |
、子供をひとり養っているのです。そして、私の父たちと同じ兄弟・姉妹として育っている。どうも六島に一人残していた子供を、後で養ったのではないかと思います。その六島というのは、後で出てくる、旧野首(きゅうのくび)教会のある野崎島のすぐ北に、小さな、本当に「ひょっこりひょうたん島」みたいな島があります。そこが六島というところです。 |
出来たというのが、私の前田家の改宗のことです。ここの一番終わりに書いてありますように、本当に仲知の人たちに感謝していたらしいです。 |
」の字に変えられたのです。また、ある地域では、苗字を付ける時に、「下」の字を苗字の頭に付けさせられたとか。こんなこともあったわけです。この紙村家の殉教は、資料B本文前から5行目にあります。 |
です。誰かが拾って養ってくれれば、というふうな感じなのです。ですから、五島にも養護施設がありますけれども、有名な奥浦慈恵院と希望の灯学園は、パリミッション会の神父様たちが、そういう子供を、それこそ昔は悪い言葉ですけれども、「ひろって」育てたとか言っておりました。それは、救済です。救済して育てていたのです。 |
な丸太を差し込んでゆさぶられるのです。口からどんどん水を入れられたりとか、両足を縛られて、船で海の中を引きずり回されたりされたそうです。色んな、本当にありとあらゆる残虐な責苦を受けているのです。その中には子供たちもおりました。食べ物も、一日、薩摩芋が朝と晩一個ずつだけだったといわれています。主な人たちは2年余り閉じ込められました。これらのことを話しますと、これだけで何時間も掛かりますが・・・。 |
けれども、 |
財として保存されているが、これからは何をもって信仰を証しするのか。』とあります。 |
糧を求めるのも苦しいその中で、百年前にこの素晴らしい煉瓦造りの教会を建てたのです。「罪ほろぼし」のためでもあったのです。来年、献堂百周年です。そして、ずっと自分が迫害されたこと、転んだことを、そして自分が罪の意識に責められたことを、また、教会を造る時の苦労を、ずっと子供たちに、親戚に話しています。そして、その話を私の母たちが聞いているから、私にまたその話をしたりするのです。一番身近な先祖から伝えられ学びます。どんなことがあっても最後は信仰の決断をしなければいけないのだと。 |
『イエスは、誰にでも、(中略)様々な出来事の中で、「わたしを愛しているか」と問い続けている。それが愛の交わりへの招きであり、広い意味での殉教(愛の証し=司牧・宣教)を通しての、神の愛の交わり(救い)への恵みと信じたい。』と。 |
お父さんば迎えに行って来い。』とか、『お父さんの焼酎ば買いに行って来い。』と命じられ、『化けもんが出て恐ろしかけん、行きとうなか。』とごねると、『何ば恐ろしかとか。父と子と(十字を切って)ばして、めでたし(聖母マリアの祈り)、天にまします(主の祈り)ば祈れば、化けもんはおらんごとなるけん。そげんときゃ、そげんせろ。』と、いつも言われた。早速、『化けもん』が出た。恐くて金縛りみたいになったが、やっとの思いで十字を切り、祈った。そうしたら本当にいなくなった。救われたのだ。」 |
これで結んでいるんですけれども。 なぜ、父と子とをして、天にまします、めでたしをしろと何度も言うのか、私をごまかしておつかいに行かせるために言っているのかなぁと思っていたら、昔の宣教師たちが、それを言っているのです。迫害で本当に転ぶんじゃないかと心配な時は、十字を切って、天にましますとめでたしを唱えなさい。イエズス・マリアと言いなさいと教えているのです。パリミッション会の神父さまたちが教えているのです。それが、ずっと親から子に伝わって、私にまで伝わっていたのです。ですから、いざという時に、この祈りは本当に助かります。私も、金縛りにあったことがあるのです、1回だけ。その時に、もう駄目だと思ったときに、本当にやっと十字架が切れたときに、軽くなりましたね。やはり、信仰というのは、そういう伝達じゃないかと思います。 もうひとつだけ、こんどは父の話をします。私が神父になる前、もう30年以上前ですね、父はある島の小学校に教員として勤めていたのです。そこは、ちょうどカトリックが半分、仏教が半分の学校だったのです。当時、長崎教区では、8月の夏休みを利用して堅信式がありました。島ですから、島から島へと渡って行かないと教会に行かれないところもあるのです。ちょうどその時は、有福(ありふく)島という所におりまして、有福小学校でのことです。 ある時、堅信式がありました。そして、そこの本教会は、若松島の土井ノ浦教会で、そこに司教様が来て、8月の何日かが、堅信式の日になったのです。そうしましたら、学校の職員会議で登校日を決める時になって、その同じ日を、カトリック信者が堅信で絶対に行かなければならないその日を、わざと先生たちは職員会議で登校日に決めたのです。私の父は、ちょうど教員でもあるし、自分の子供は堅信式にやらなければならないし、自分も行かなくてはいけないし、その日だけ |
ははずしてくれと、願ったのです。カトリック信者には堅信という行事があって、土井ノ浦教会まで行かないといけないのですと。そう言っても、先生たちは絶対に譲らなかったのです。これはひとつの踏み絵です。踏み絵なのです。それで私の父は非常に悩んだのです。 当時、私は、父が教員だった関係もあって、慶応大学の通信教育を受けていたのですけれども、その卒論に「現代日本における教育権論争」ということをテーマにしていました。私の霊名はトマス・アクィナスですけれども、そのトマス・アクィナスは、子供の教育権はまず両親にあるとはっきり言っているのです。ですから、ちょうど私もそういうことを勉強していて、教育基本法、福岡伝習館高校の教科書問題、家永教科書裁判とか杉本判決とか色々とあっていました。どこそこの高校で教科書を使わなかったとか、ちょうど論争があった時代だったのです。 ですから、「親父、頑張れ。第一の子供の教育権は、親にあるんだから。親父は、先生ではあるけれど、まず、親でもあるんだぞ。だから、堂々と子供を堅信式にやって、自分も堅信式に行けよ。」と、私も尻を叩いて励ましました。そして、私の父は、子供たちと一緒に堅信式に与かって、登校日には行かなかったのです。もちろん、信者は誰も行かなかったです。学校の先生と仏教の人だけが、登校日に学校に行きましたけどね。ですから、私の父は、その頃は日教組も非常に盛んで、日教組にも入らなかった関係もあって、教員として、本当にいじめられていました。確かに。キリシタンでもあるし。でも、絶対に折れなかったです。登校日でも、教会の堅信式に子供たちを連れて行きました。そのかわり、相当、学校では圧力を受けていたようです。 また昔、学校の教員住宅というのは、あまり良くなかったのです。私は11人兄弟で、家族がいっぱいいるから、普通の家を借りていたのです。そうしましたら、 |
隣の家の人が、私たちがお祈りをするものだから、「やかましかー」と言うんです。父はそう言われても、ずっと夕の祈りを、子供たちを座らせて続けさせました。相手は玄関まで来て言うのです。「止めろー」と。その辺りは仏教の集落でしたからなのでしょう。それでも、私も、父と一緒に、大きな声で祈ったことを覚えています。 このように、子々孫々、ずっと先祖から受け継いで、信仰というものを伝えていかねばならないと思います。そして、一番の宝物というのは、信仰の遺産だと思うのです。私が司祭になったからそう言うのかも知れませんけれども、やはり、そのように思います。ですから、長崎新聞にも「禁教・迫害・潜伏を経て復活を遂げた本県独特のキリスト教文化の精神性の高さが『世界史的価値』として評価された」と書いてあったので、もう涙が出てしまったわけです。いつかは本当に称えられる時が来る、認められる時が来ると励まし、励まされていたわけですからね。社会が精神文化として認めたわけですですから、私には特別な思いがあるのです。 お祈りのうちに終わります。どうもありがとうございました。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1 << < > >> | 2 << < > >> | 3 << < > >> | 4 << < > >> | 5 << < > >> |