四旬節講話

2008年2月17日

十字架−キリスト教のトレードマーク

講師 国井 健宏師(御受難修道会)

 


 最初に、典礼聖歌集の383番『イエズス・キリストへ』を歌いましょう。
高田先生の曲はいろいろとありますけれど、この曲は随分と早くに作られたものですが、先生の作曲したもののなかでも、ずば抜けて素晴らしい曲だと思います。
  1番、2番、3番を続けて歌いたいと思いますが、1番の後、2番が次のページに書いてあって、3番はまた1番のところに戻ってきます。
  初めての方もいらっしゃるかも知れませんが、楽譜の♪オタマジャクシ♪が上にあがっているところは音を高くして、下にさがったら音を低くすれば、それでも大体歌えますから、やってみましょう。では、お願いします。

♪典礼聖歌383番「イエズス・キリストへ」♪

渇く、渇く、渇く。/あなたは あなたを 飲み/わたしは わたしを 飲み、
なおいえぬ 渇き。 たえがたく 渇く、渇く今/
おお 飲もう、飲もう、飲もう イエズス、 イエズス キリストを 飲もう。
寒い、寒い、寒い。/あなたは あなたを着て/わたしは わたしを着て
なお止まぬ 寒さ、 たえがたく 寒い、寒い今、
おお 着よう、着よう、着よう、イエズス、 イエズス キリストを 着よう。

痛む、痛む、痛む。/あなたは あなたを賭け/わたしは わたしを賭け。
なお去らぬ 痛み。 たえがたく 痛む、痛む 今。
おお 行こう、行こう イエズス、 イエズス キリストへ 行こう。 

(詩 高野 喜久雄)

 キリスト教のシンボルには、十字架がつかわれます。それから、地図なんかだと、教会のしるしに十字架を使ったりしますが、どういう意味でしょうかね。
  近頃は、アクセサリーで、まったくキリスト教と関係のない人も、首飾りにしています。それから、サッカーの試合なんかを見ていると、ブラジルの選手なんかは、ピッチに入る前に、こうやって十字架のしるしをしたり〈十字架のしるしをしながら〉、ボクシングで、ボクサーが、やはり、合い間に十字架のしるしをして、それで相手を殴るんですからね。いろんなところで、十字架が使われていますが、一体、どういう意味なのでしょうか。

  この前、他のことでちょっと調べていたら、400年前の切支丹の時代、私たちは「父と子と聖霊のみ名によって」と言っていますが、切支丹の人たちは、「インナウミネ デウス パーテル フィリオ スピリツ サント のみ名をもて、アーメン」と言いながら十字架のしるしをしたそうです。
  「インナウミネ デウス」神の名において、「パーテル」父、「フィリオ」子、「スピリツ サンクト」聖霊のことですね。キチンとした日本語の訳が無い時は、ラテン語とかポルトガル語を耳で聞いたのを、そのまま日本語で言いました。
  だから、クリスチャンが「キリシタン・切支丹」になりますよね。神父さまのことがパーデレ。「バテレン・伴天連」というのも、パーテルのことらしいのですが。ちょっと発音は違いますけれども、400年前のキリシタンは、「インナウミネ デウス パーテル フィリオ スピリツ サント のみ名により」と言いながら、十字架のしるしをしていました。
 ギリシア正教とか東方教会にいくと、同じ十字架のしるしをするのですが、こういうふうに、まず上から下にやった後、次に、右から左の肩にかけて、私たちとは逆にするのです。初めて見ると、あれ? と思いますけれども、彼らは一生懸命に、何回もやるんですよ。
  そして、彼らの唱えることばは、「父と子と聖霊」ではなくて、「ハギオス ホテオス、ハギオス イスキュロス、ハギオス アタナトス エレイソン ヘーマース」、「聖なる神よ、聖なる力強い方よ、聖なる不死の方よ 私たちをあわれんでください」キリエ エレイソン、最後に「エレイソン ヘーマース」も入ります。その聖なる神があわれんで救ってくださいますように、そういう祈りを込めて。でも、形は十字架の形を自分の上にします。

 さあ、なぜ十字架なのでしょうか。それは、信者ならばすぐに分かることですが、それは十字架によって、イエスさまが私たちを救ってくださる。あるいは、神はそのひとり子を与えるほど世を愛してくださった。十字架によって、わたしたちを救ってくださる、その信仰の表れですよね。
  他にも、十字架をいろいろな所でつかいます。国によって伝統も違うかも知れませんが、例えばミサの中で福音書を読む時に、「マタイによる福音。」「主に栄光。」と言いながら、額と口と胸に、小さな十字架のしるしをしますね。福音で読まれる神のことばを、頭で理解し、それを正しく人々に告げ、心の中に保つことが出来ますように。どこで生まれた習慣かは知りませんが、それは、やはり、みことばに対する、正しい態度を表わすシンボルだと思いますね。
  それから、先週、灰の水曜日がありました。頭から灰をかけるという習慣と、額に十字架のしるしをする、この方がもっと古くからの、長い習慣だと思いますけれどもね、額に十字架のしるしをしてもらいます。
 何年も前に、アルフォンス・デーケン神父様が日本経済新聞に書いていらっしゃったことがありますが、彼がニューヨークのフォーダム大学で勉強をしていた頃ですから、今から40年以上前のことです。その灰の水曜日に、ニューヨークの下町のほう、ウォール・ストリート、ウォール街、世界の金融を牛耳る、そのウォール街を歩いていると、やたらと額に黒い十字架のついたビジネスマンが歩いているというのです。ウォール・ストリートというと、まるで金の亡者ばかりが集まっているのかと思ったら、そうじゃないのですね。そこで働いている、たくさんの真面目なカトリック信者は、仕事に行く前に、朝早く教会に行って、灰の水曜日のミサに与かって、灰の式で額に黒々と十字架のしるしをつけてもらって、それをつけたまま一日を過ごすのですよ。私はカトリック信者ですという、目に見えるしるしですね。
  いろいろな所で十字架を使います。私たちも、祈りを始める時、終わる時、いろんな時に十字架のしるしをしますが、あまり意味を考えずにやっていることが多いのではないでしょうかね。神父さまなどと話をしていても、誰かがこう、手を上げて「父と子と・・・」と始めると、思わずつられて「父と子と・・・」とやってしまいますね。

  一昨年、鎌倉・雪ノ下教会を持つレデンプトール会の神父さまで、パレ神父様(1937.5.6−2006.12.29)が、まだ70歳前だったでしょうかね、心臓発作で急死されました。とても残念でした。元気な人でね、神学校のときは、私のほうがちょっと上で、一緒だったことは無いのですが、あとでときどき、お話なんかをすることがあって。彼はカナダ人で、若い時はアイスホッケーをしながら育ったという、身体の大きな、どっしりとしたスポーツマンでしたが、でも、神学校のラテン語の授業にだいぶ苦労されたみたいでね。「私は勉強より、スポーツが好きです。」なんて言ってました。今は、染野助祭が卒業試験前で、ピリピリしながら勉強していますけれども、昔はもっと厳しい試験で、しかも全部ラテン語だったんですよ。そして、その試験場には、5人の試験官の神父さまがいて、受ける学生は一人。それで、ラテン語で質問されるんですよ。試験場には本を持って入ってもいいのですけれども、それはラテン語の聖書と、それからもうひとつは、こんなに分厚い、聖書のことばからはじまって、いろんな公会議で決定されたことが書かれていて、ニケア公会議、コンスタンチノーブル公会議、特に、トリエント公会議の聖体についての教え、千二百何十何条というのもあるんです。パレ神父さまも、どこに何があると全部は覚えきれないから、試験の出そうな大事なところに、指をこう挟んで、ニケア公会議は人差し指、それから、カルケドンは中指、トリエントは小指とか・・・、4ヵ所ぐらい、大事な所に指を入れて〈実際に本に4ヵ所指を差し入れて〉試験場に入って行って席に座ったら、試験官の神父さまが「それでは、始めましょう。父と子と・・・」、こちらもつられて「父と子と・・・」。せっかく指を挟んだのに、つられて十字架のしるしをしてしまいました〈指を差し入れた手で十字を切る〉。そして、それがまさに十字架になって、その試験に落ちたそうです。再試験で通してもらったと言って、笑っておられました。とにかくね、いろんなところで十字架をつかいます。

  十字架の意味は、大体、私たちは分かっているつもりですけれども、でもやはり、こういう四旬節を迎えてもう一度、なぜ、十字架がキリスト教のシンボルなのか。逆の言い方をすると、十字架を取ってしまったらキリスト教じゃないんですよね。あるいは、私たち信者の生活のなかで、イエスさまは、「自分の十字架を背負ってついてきなさい。私についてきなさい。」と言われている。ですから、私たちの生活のなかに十字架が無かったら、キリスト者の生活ではありません。必ず、十字架は付き物です。

  先週は四旬節第一主日でしたが、その最初の朗読は、アダムの罪の話でした。あれは決して、大昔のその昔、アダムとエワという人がいて、二人が神さまに背いたから原罪になって、私たちが苦しむことになった、という話じゃないんですよ。アダムとエワという代表的な俳優を登場させて、人間とはどういうものなのか、罪とはどういうものなのか、神さまはそれに対してどう対応されるのか。あれはね、すべての時代の、すべての人間の物語なんです。昔々の話ではありません。今の時代の話です。楽園で神様の似姿に造られるアダム、エワ。その二人の名前は、ふたつとも言葉の遊びです。いわゆる、「田中一郎」のような固有名詞ではないんです。「アダム」というのは、イスラエル地方の赤い色をした粘土、「アダマー」という赤土から造られたので、「アダム」。土から生まれた「土男さん」というところです。土男さんの物語です。でも、その土の器、もろい土の器の中に、神さまのいのちの息吹きが吹きこまれて生きるものとなった、私たちみんなの物語です。でも私たちが、人間として生きようとすると、アダム、土から生まれた土男さんが、神さまの息吹を受けて生きはじめる時に、人間として生きようとすると、人間というものはその初めから、悪と戦わなければならない、始めから終わりまでなんの試練もなしに、いわば健康優良児のままで、そのまま天国に行くのではない。

  一人ひとりが、善を選び、悪を退ける。世の中に、完全な人というのはいませんよね。みんながいろいろなマイナスの条件があって、みんながハンディキャップを持って生まれてきます。それぞれに十字架があります。人の十字架のほうが、良く見えるかも知れないんですけれども。 あの苦しみなら良いですけれど、私のだけはと言っても、そうはいかないのですよね。「あなたの十字架を負ってついてきなさい」。人の十字架よりも、まず、自分の十字架。それで、その悪との戦い、罪との戦い。それも、初めからありました。人間であるということは、自由であるということ。善を選び、。悪を退ける。その決定、その選択をしなければならないのです。何もしなくても、最初から善しか出来ないようになっていたら、自由ではないのです。決められた通りにしか出来ない、機械人間です。自由であるということは、失敗する可能性もある。神さまに「NO」と言う力があります。神さまは私たちをそれほどの者にしてくださったのです。その善悪の話は別のこととして。ですから聖書は一番初めに人間の物語を持って来て、人間であるということは、こういうふうに神さまに向けて造られているけれども、同時にその歩みの中で、悪と戦わなければならないものなのだ。だけど、不幸なことに、誘惑に負けてしまう。でも、それで駄目なのではなくて、それにまた戦って、打ち勝って、立ち上がって神さまについてくるように、そういうふうに造られたものなのだ。
 
  そして、その悪との戦いというのは、単純ではないのですね。「水戸黄門」みたいに、悪人がいて、善人がいて、悪代官がいたり、悪徳商人なんかがいて、こんな菓子箱を差し出して、「これは重いのう」とか言って、喜んで悪いことをしている人たちが懲らしめられる話。適当にチャンバラをやった後、「助さん格さん、もうその辺でよかろう」と言って、それで、三つ葉葵の印籠を「この紋所が目に入らぬか」と見せて、それを見てみんなが「ハハー」と、なりますでしょう。「頭が高いひかえおろう。」「ハハァー」と言って、それで悪人が懲らしめられる。そりゃあ、楽なもんですよ。見ている人はスカッとするかも知れませんけどね。十字架のしるしというものは、そうはいかないみたいですね。まぁ、ドラキュラなんかは、印籠みたいに十字架を見せれば良いのかも知れませんけど。十字架を見せれば逃げていくとか・・・。十字架のしるしは、水戸黄門の紋所のようにはいかない。自分がイエスさまと一緒に苦しむしるしです。十字架というのはね、まず、イエスさまの苦しみのしるしじゃないですか。そして、十字架というのは、また、神さまのへりくだりのしるしなんです。この天地万物をお創りになった神さまですよ。

  ここに集まっている私たちは、50年前、80年前、少なくとも100年前には、この地上に誰もいませんでした。100年前にいましたという方は、手を挙げてください。私たちのいない宇宙は、何百億年続いたんです。私たちはいませんでした。どこを探しても。宇宙の端から端まで探しても、誰もいなかった。その宇宙さえも無い時代がありました。宇宙がどのように始まったか。それは科学的には分からないけれども、でも聖書は、その初めを始められた方は、神さまなのだと言います。「初めに神が天と地をお創りになった。」科学者は「ビックバン」という言葉を使うかも知れません。具体的に何があったか分かりません。でも神さまが何にも無いところで「光あれ」と言われると、光があった。何にも無い、その虚無の深淵に向かって神さまが呼びかけられると、何にも無いところから、その呼び声に応えて、光が輝きはじめる。ある詩編では、「神さまが星のひとつひとつに名前をつけて呼ばれた」。詩的ですよ。「オリオン、出て来い」と言われて、何にも無いところからパッと輝いて、「私はここにおります」。「昴、出て来い」と言われて、そうすると、また違う色でパッと輝きでる。神さまが呼ばれなかったら、この世は存在しないのです。
 それで、そういう時代が何億年も続いた後、神さまは私たち一人ひとりのことを考えて、そして、私たちの名前を呼んでくださったのですよ。「田中角栄、出て来い」と、あの独特な声で、呼ばれたかどうかは知りませんけれどもね。一人ひとりの名前を呼ばれて。それで、私たちは居なかったのに・・・。いいですか、私は自分でこの世に来ました、なんて人はいませんよね。皆さん全部、100年前はいなかったのに、今、いるのは、神さまに名前を呼ばれたからです。
 その神さまが「光あれ」と言われると、光があった。太陽も、月も、星も、そして、今も永遠に拡がり続けている大宇宙も、いわば神さまのひと声で存在している。その偉大な神さまが、私たちのためにへりくだってくださった。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」その永遠の神、永遠の神のみことば、永遠の神のひとり子が、みことばは、人となって私たちのうちにすまわれた。聖書は『肉』と言う言葉を使います。みことばは肉となられた。私たちの、このもろい、はかない、弱いもの、私たちの想像をはるかに超えた、あの偉大な方が、小さな人間の、弱い肉となられたんです。神さまの、とてつもないへりくだりです。十字架の神秘は、まずそのことを表わしていると思います。神さまのへりくだり。それも、私たちのために。

  こうして、人となられたみことば、神のひとり子イエス・キリスト。その方は、初代教会の信仰宣言──フィリピ書の2章にあります(2章6節−9節)──神の姿でありながら、その神の姿に固執することをせず、そこにしがみつくことをしないで、自らをむなしくして、自分を空っぽにして、従う者、しかも十字架の死に至るまで、従う者となられた。イエスさまは、ご自分を、ギリシア語で「ケノーシス」という言葉を使うのだそうですが、バケツを引っくり返して、空っぽにしてしまうんです。自分を空っぽにして、自分のやりたいこと、自分が望んでいること、あれが欲しい、これが欲しい、ああなったら良い、こうなったら良い、そうではなく、それを全部空っぽにして、従う者になられた。父のみ旨に従う者となって、そして、十字架に至るまで従われた。それが、救い主のへりくだりです。そこまで、主が私たちのために、ご自分を無にしてくださった。十字架上のイエスさまの姿は、まさにそれです。自分を注ぎだされた。それゆえ神はイエスを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになった。そういう形でイエスさまの復活を称えます。イエスさまは、適当にあるところまでやっておいて、そのうちに、この紋所が目に入らぬかと言って悪をやっつけたのじゃないんです。自分が一番下までへりくだっていって、みんなから小突き回されて、踏みつけられて、傷つけられて、馬鹿にされて、それを全部身に受けてくださった。徹底したイエスさまのへりくだりがありました。だからこそ、本当の復活がある。
 そのイエスさまのへりくだりの姿、十字架のイエスさまですが、同時に、いろいろなところに現れてくるイエスさまの姿、今日は、ヨハネの8章に出てくる、姦淫の現場を捕らえられた女の人の話、そこに見えるイエスさまの姿を考えてみましょう。

 『イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。
 そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
 イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」〕』
(ヨハネ8:1−11)

 朝早く、もう神殿に行ったら群衆がいて、イエスさまの周りにみんながやってきたので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たち、ファリサイ派の人たち、我こそは義人なりという人たちが、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせた。恥ずかしい話ですよね。そして、イエスに言います。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、聖書で言っています。さあ、あなたはどう言いますか。」彼らはイエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
 
  この場面を、皆さんちょっと想像して見てください。みんなが集まっているところに、女の人が、不倫していますといって引張ってこられる。みんなの前に立たされます。とんでもない恥をかかされます。捕まえてきた律法学者やファリサイ派の人々は、我こそは聖人なりなんて顔をしているかも知れませんけど、でも彼らは、女の人だけを捕まえて来ました。不倫をしたというのなら、相手の男の人もいるはずです。男はどうしていないのですか? ひょっとしたら、顔見知りだったので見逃したのか。若くて、力が強くて、逃げ足が速かったから捕まえられなかったのか。その辺は何も書いてありませんが、一番弱い、そして自分の身を護るすべのない女の人。当時の男性優位の社会の中で、一番弱い人が捕まえられてきて、みんなの、群集の注目を浴びる真ん中に立たされて、本当に、穴があったら入りたい、そういう思いだったのではないでしょうか。
 「この女は姦淫の現場を捕まりました。」でも、彼らがそういうことをしたのは、いいですか、モーセの律法を守る熱心さからではなくて、信仰の純粋さから、「人間は正しい事をしなければならないのに、お前は間違っているじゃないか」ってね、まぁ、あまり周りにそういう人がたくさんいると困りますけれども・・・、とにかく、そう言って、本当に、何も自分の弁護の出来ないような女の人が引張ってこられたということだけではないのです。このファリサイ派の人は、イエスを訴えるための口実を作るために、何とかしてイエスにケチをつけようとして、この弱い人を引っ張ってきた。それで、彼らの計算というのは、その女の人に同情して、「この人は悪いことをしたかもしれないけれども、いろいろと訳ありで、事情があったんだよ。今日は、ちょっと大目に見てやりなさい。」なとど言われたら、「あの男は、モーセの律法を無視している。」と言って、イエスさまを非難します。 
 あるいは、その逆に、イエスさまが「あなたたちの言うとおりだ。こういう者は石打ちの刑にしろと聖書にかいてあるから、やりなさい。」なんて言われたら、今度は、「あの男は、片方では隣人を愛しなさいと言っておきながら、実際に捕まった人に対しては、冷酷無比な人間だ。」と言って、イエスさまを攻撃できる。いわば「両刃の刃」だったわけです。どっちをやっても、イエスさまが悪く言われる。そういう、もの凄い冷たい計算で、この可哀想な女の人が捕まりました。イエスは黙ってしゃがみ込んで、地面に何か書き始められた。ひとつは、イエスさまは、この弱い立場に置かれた女の人が、攻撃されている、恥をかかされている、いわばその女の人の場に、自分も身を置いて。そして、もうひとつは、そういうことをする男連中の、汚い心、純粋な宗教的な信念からではなくて、イエスさまにケチをつけようという、そのためにこんな恥ずかしい思いをさせる、その汚れた心を、本当に恥じ入るかのように、それも全部自分の背中で受け止めて、しゃがみ込んで、じっとただ黙って、何か書いておられた。イエスさまは、そこでパッと立ち上がって、「どうだ、これが目に入らぬか」とはやらないんです。それで、その恥をかかされている一番弱い人の立場に自分も身を置いて、その攻撃をモロに身に受けて、じっと恥を偲んでおられる。しかし、それでも彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。やっと身を起こした。そして言われます。
 「あなたたちの中で罪を犯したことのない人から、石を投げるがよい。」あなたたちの中で罪を犯したことのない人ならば、石を投げる権利があるかもしれない。そういう人がいるなら、投げるがよい。この状況を、聖書記者はよく見ていたのでしょうね。そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去っていった。そして最後には、イエスひとりと、女の人だけが残った。罪の無いものから、石を投げるがよい。イエスさまをおとしめようとしていた人たちの中には、若者もいたかも知れません、年寄りもいたかも知れません。それでも、罪を犯したことの無い者からと言われて、みんな自分のことが心配になってきて、周りを見る。「俺はあの人の悪いことも知っているぞ」なんて言いながらね。だけど、そう言われれば、私だって脛に傷持つ身だからというので、年長者から始まって・・・。歳を取るほど、悪いことはしないと思っていても、いろんな所で人を傷つけてしまう。一生懸命に、人に良かれと思っていたことが、実は傷つけていた。そんなことはよくありますよね。ああなんでもっと早く気が付かなかったのだろう。そういうことも含めて、やはりね、人間というものを長くやっていると、それだけまた、罪もあります。それで、年長者から一人、また一人と始まって、段々と。みんな、罪のある人間です。みんないなくなった。そして、最後には、イエスひとりと、真ん中にいた女の人だけが残った。
 イエスが身を起こして言われます。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が言った。「はい主よ、だれも。」イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。もうこれからは、罪を犯すことがないように。」

  これが、イエスさまのなさり方なんですよね。
 この女が罪を犯しましたという者たちに向かって、このしるしが目に入らぬかと言って、お前たちだって罪を犯しただろうと言われて、周りの者たちが「ハハー」と言って、そこに跪くのではないんですよ。黙って、苦しんでいる人とともに苦しみを受ける。辱めを受けている人とともに、その辱めを背中に、身に受ける。そして、責める人たちの心の汚さ、汚れを恥じ入るかのように、それについても、「すみません、神さま。こういう人たちもいるんです。ゆるしてやってください。」と言わんばかりにへりくだって、地面に何か書いておられた。
 私たちの罪を身に受けてくださった。このヨハネの8章に出てくる、姦淫の女の人の話。これも、ただ悪い女の人がいたという話ではないのです。これは私たちみんなの物語です。その人の罪を、恥を、イエスさまは身に受けて、そして、守ってくださる方なのだ。イエスさまとはこういう救い主なのです。

 マタイ福音書にも、イエスさまの受難が記されています。まず、はじめにその箇所を読みます。そして、その箇所を、あの偉大な大作曲家のバッハが、マタイ受難曲でどういうふうに作曲しているか、それをちょっと聞いて、黙想して頂きたいと思います。

 『さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。』(マタイ:27章45節−46節)

 イエスさまは、十字架の上で、わたしたちの罪を、苦しみを、むなしさを身に受けて、そして、神さまからさえも見捨てられる。それほどのへりくだりを、自分を無にする、そこまで下って、わたしたちを救おうとしてくださった。そういう救い主なのだ。ちょっと聞いてみましょう。
「さて、昼の十二時に、全地は暗くなった」そこのところからです。

♪マタイ受難曲♪

「なぜわたしを見捨てられたのか」

 そこまで、イエスさまは、私たちのためにへりくだってくださいました。だから、十字架は、神さまのへりくだりのしるし。イエスさまのへりくだりのしるしです。それだけではありません。何のためにへりくだられたのか。それは、わたしたちを救うため。わたしたちが、死からいのちに呼び出されるためでした。わたしたちが自愛心の、小さい、冷たい愛の無い永遠の暗闇のなかで滅びないために。自己中心な、わがままな、気まぐれな私たちが、その小さな自分を捨てて、神さまのもっと大きな世界に生きることが出来るために。イエスさまはね、これほどのことをして下さったのです。

  聖週間の聖金曜日に、私たちはイエスさまの受難の典礼、黙想をしますが、そのなかで十字架の礼拝というのがありますよね。その時に歌う歌が、「インプロペリウム」、とがめの交唱といって、これは古く、中世初期からある祈りで、十字架上のイエスが礼拝に来る民を見下ろしながら民に語りかけられる言葉、旧約聖書の「ミカの預言」からとって、それをイエスさまの言葉にした有名な祈りがあります。
 「わが民よ。わたしが何をしたというのか。何をもってお前を悲しませたというのか。答えてほしい。」レスポンデ・ミキ。答えてくれ。「わたしはあなたたちを、エジプトの地、奴隷の地から導きだした。その救い主の脇腹に、あなたたちは槍で突き刺して穴をあけた。わたしがお前たちに何をしたというのか。何をもってお前たちを悲しませたというのか。答えてほしい。」
 この聖週間の典礼の儀式書をご覧になると、その言葉が出ています。それは、本当に、十字架についての、長いキリスト教の伝統にある黙想の祈りです。わたしたちはキリスト者として、十字架のしるしを、いたるところで使っていますけれども、十字架が一体どういう意味を持っているのか、十字架が何を表わしているのか、なぜそんなに十字架が大事なのか、この四旬節の間に、わたしたちはもう一度、その理解を深めていきたいと思います。そして、十字架上のイエスさまの苦しみの大きさ。それだけではない、イエスさまの愛の大きさ。それほどまで、イエスさまは愛して下さったんだ。こんなにわたしは、愛されているんだ。十字架は、ただ神さま、イエスさまのへりくだりだけではなくて、神さまの愛の表れなんだ。神はひとり子を与えるほど、私たちを愛してくださった。

  十字架を通して神さまが語りかけられます。
「わたしが何をしたというのか。これ以上、何かわたしに出来ることがあるというのか。」
「光あれ」と言って、はじめに神が天と地を創られた。この限りない、果てしない天地万物をお創りになった神さまでさえも、これ以上のことは出来ない。十字架のなかに、その、はかり知れない神さまの愛が示されている。そのことを、わたしたちは、本当に感謝をもって、十字架の意味を深めていきたいと思います。そこに愛があるから、十字架は勝利のしるしになります。十字架は苦しみのしるしだけではなくて、愛のしるしです。勝利のしるしです。十字架のなかに、神さまの栄光が表われています。ただ苦しみだけではない。わたしたちのために、これほどの苦しみを受けてくださった。それほどの愛は、死も滅ぼすことが出来ない。これほどの愛は、死よりも強い。そのことを、神さまは、イエスさまを三日目に死者のなかから立ち上がらせて、これほどの愛は永遠のものだということをあかしして下さいました。

  これからの四旬節の日々、わたしたちはこの十字架を、信仰生活のなかの十字架を大切にしていきましょう。これは十字を切るときに丁寧にしましょうと言っているのではないですよ、十字架のしるしをする時に、本当にそれが何を表わしているのか、それをもっと深く理解して、生活の中で活かせていけたら良いと思います。答えは最終的な勝利です。でも、そこに至るプロセスが大事なのです。わたしたちが、わたしがどのようにキリストの十字架に与かっていくか。わたしが、どのように自分の十字架を荷って主について行くか。そのことを通して、私たちにも、本当に十字架が神さまの愛のしるし、そして、その愛は死よりも強い、勝利のしるしとなりますように。最愛のひとり子を与えてくださった御父への感謝の心を新たにしながら、ご一緒に主の祈りを捧げて、終わりにしましょう。十字架のしるしをして祈りましょう。

+父と子と聖霊のみ名によって、アーメン。
天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。
わたしたちの日ごと糧を、今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。私たちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。アーメン。
+父と子と聖霊のみ名によって、アーメン。

 

四旬節講話 2008年2月17日  『十字架―キリスト教のトレードマーク』
講師 国井 健宏師(御受難修道会)

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