本所教会では、日本26聖殉教者祭を、毎年2月の最初の日曜日に開催しています。今年は2月5日を間近に控えた2月2日の日曜日に、殉教祭が行われ、近隣の教会からも多くの方が参加されました。
わたしは、その昔、名古屋の神言会の小神学生だった頃から、当時の下山主任司祭の神学生援助への御礼もかねて、長年にわたりこの殉教祭に通っていたこともあり、これからもできる限り2月の殉教祭には参加させていただければと思っています。
昨年11月に日本を訪問された教皇フランシスコは、「すべてのいのちを守るため」をテーマとして、各地で様々な側面から、いのちについて語られました。
言うまでもなく私たちのいのちは、神からの賜物であり、神は愛を込めて、人を神の似姿として創造されたとわたしたちは信じています。そこに何物にも代えがたい人間のいのちの価値があり、人間の尊厳があります。
教皇フランシスコは、広島や長崎では核兵器廃絶や平和について語り、東京では、無関心や孤立や孤独のうちに危機に直面するいのちを守る必要性を語られました。人間はひとりでいのちをつないでいくのではなく、互いの出会いのうちに支え合って生きていくのだと諭されました。
教皇は「有能さと生産性と成功のみを求める文化に、無償で無私の愛の文化が、「成功した」人だけでなくどの人にも幸福で充実した生活の可能性を差し出せる文化が、取って変わるよう努めてください」と、到着して早々に日本の司教団に呼びかけられました。
誰ひとりとして排除されて良い人はおらず、忘れられて良い人もいない。教皇フランシスコは、排除のない世界の実現のために、世界各地で呼びかけ続けておられます。
実質三日に過ぎなかった日本訪問でしたが、教皇フランシスコはいのちの価値について語っただけではなく、長崎で殉教者の地を訪れて、信仰を守り抜いたわたしたちの信仰の先達についても話されました。西坂の26聖人殉教地を訪れた時には、激しい雨の中、祈りを捧げた後に、次のように述べられました。
「しかしながら、この聖地は死についてよりも、いのちの勝利について語りかけます。ここで、迫害と剣に打ち勝った愛のうちに、福音の光が輝いたからです」
聖人たちの殉教は、死の勝利ではなく、いのちの勝利なのだ。聖人たちの殉教によって、福音の光が輝いた。そこから「福音の光」という希望が生み出されたと教皇は指摘されました。
「殉教者の血は教会の種である」と、二世紀の教父テルトゥリアヌスは言葉を残しました。テルトゥリアヌスは『護教論』において、権力者の暴力と不正を告発し、キリスト教の立場を明確にする中で、殉教を通じた聖霊の勝利を示します。
教会は殉教者たちが流した血を礎として成り立っていますが、それは悲惨な死を嘆き悲しむためではなく、むしろ聖霊の勝利、すなわち神の計らいの勝利を、教会の存在があかしし続けていくという意味においてです。
西坂での教皇フランシスコの言葉を続けます。
「ここは何よりも復活を告げる場所です。襲いくるあらゆる試練の中でも、最後は死ではなく、いのちに至ると宣言しているからです。わたしたちは死ではなく、完全な神的いのちに向かって呼ばれているのです。彼らは、そのことを告げ知らせたのです。確かにここには、死と殉教の闇があります。ですが同時に、復活の光も告げ知らされています」
わたしたちは、信仰の先達である殉教者たちに崇敬の祈りを捧げるとき、単に歴史に残る勇敢な者たちの偉業を振り返るだけではなく、その出来事から現代生きるわたしたちへの希望の光を見いだそうとするのです。
それでは二十六聖人の殉教は、今を生きるわたしたちに、どのような希望の光を示しているでしょうか。
教皇フランシスコは西坂で、「殉教者の血は、イエス・キリストがすべての人に、わたしたち皆に与えたいと望む、新しいいのちの種となりました。そのあかしは、宣教する弟子として生きるわたしたちの信仰を強め、献身と決意を新たにします」と言われました。
わたしたちは信仰の先達である殉教者を顕彰するとき、殉教者の信仰における勇気に倣って、福音をあかしし、告げしらせるものになる決意を新たにしなければなりません。なぜならば、殉教者たちは単に勇気を示しただけではなく、福音のあかしとして、いのちを暴力的に奪われるときまで、信仰に生きて生き抜いたのです。つまりその生き抜いた姿を通じて、最後の最後まで、福音をあかしし、告げしらせたのです。
わたしたちは殉教者に倣いたい、倣って生き抜きたい、倣って信仰をあかしして生き抜きたい。
それでは現代社会にあって、わたしたちは何を福音として告げしらせるのでしょうか。
教皇は東京ドームのミサで、日本の現実を次のように述べられました。
「ここ日本は、経済的には高度に発展した社会です。今朝の青年との集いで、社会的に孤立している人が少なくないこと、いのちの意味が分からず、自分の存在の意味を見いだせず、社会の隅にいる人が、決して少なくないことに気づかされました。家庭、学校、共同体は、一人ひとりが支え合い、また、他者を支える場であるべきなのに、利益と効率を追い求める過剰な競争によって、ますます損なわれています。多くの人が、当惑し不安を感じています。過剰な要求や、平和と安定を奪う数々の不安によって打ちのめされているのです」
その上で教皇は、「孤立し、閉ざされ、息ができずにいる『わたし』に対抗できるのは、分かち合い、祝い合い、交わる『わたしたち」、これしかありません」とのべて、教会の信仰のあかしが、個人的なものではなく共同体のあかしであることを明確に示されます。
わたしたちが毎日唱える主の祈りには、『わたしたち』という言葉があっても、『わたし』という言葉はないと、教皇は昨年2月の一般謁見で述べられました。その上で、「どうして、神との対話には個人主義が入る余地がないのでしょうか。世界の中で苦しんでいるのは自分だけであるかのように、自分の問題を誇示してはなりません。兄弟姉妹としての共同体の祈りでなければ、神への祈りにはなりえません。共同体を表す『わたしたち』として唱えます。わたしたちは兄弟姉妹です。わたしたちは、祈りをささげる民です」
孤立や孤独を深めている社会の現実が人間のいのちを危機にさらしているのであれば、それに対抗できるのは、共同体における兄弟姉妹のきずなです。わたしたちの信仰は共同体の信仰です。「分かち合い、祝い合い、交わる『わたしたち』」の共同体です。共同体の信仰におけるあかしこそが、孤立や孤独を深める現実に対する希望の光を生み出す源となります。
二十六殉教者が今日私たちに示しているのは、二十六名一人ひとりのヒロイックな信仰のあかしであるとともに、二十六名の共同体としての『わたしたち』の信仰のあかしが持つ、いのちの力と希望の光です。
教会は、現代社会にあって、兄弟姉妹の交わりを通じて、孤独と孤立の闇に輝く光となりたいと思います。『わたしたち』の信仰における希望の光を、証しする存在となりたいと思います。二十六聖殉教者の共同体としての信仰の模範に倣い、わたしたちも勇気を持って信仰に生きる、いつくしみと愛の手を無償で差し伸べる共同体となりましょう。