●「日本二十六聖人殉教者 ミサ」 主司式・説教 タルチシオ菊地功東京大司教
司教の日記より

2月5日は日本26聖人殉教者の記念日です。今年は主日と重なったため、特別にこの日を祝った教会などをのぞいて、もちろん主日のミサが優先されました。(なお現在、日本のこういった記念日が主日と重なった場合に、その年の記念日を移動することを司教協議会で検討中です)

しかし、毎年、26聖人の殉教祭を祝っているところでは、この日曜日を許可を得て殉教者の記念日としたところもあったと思います。東京教区の本所教会もその一つです。長年にわたって、2月5日に一番近い主日を、殉教祭として祝ってきました。以前にも記しましたが、わたしも1972年頃から10年近くは、毎年、他の神言会の神学生たちと一緒に名古屋から、この殉教祭に参加していました。

今年の本所教会での殉教祭には、聖堂入り口のところに、26聖人それぞれについての紹介のパネルも用意され、ミサも、ラテン語あり、グレゴリアンの天使ミサありと、かつての殉教祭を彷彿とさせるお祝いでした。寒い日でしたが、東京はお天気に恵まれ、本所教会の裏手にはスカイツリーもそびえ立ってきれいに見えていました。

ミサ後には、本所教会で数年前に作成したという26聖人殉教祭の法被をまとって、教会のカリタスの業について、30分ほどお話をさせていただきました。参加してくださった皆さん、ありがうございました。

以下、当日の説教の原稿です。

日本26聖人殉教者殉教祭ミサ
2023年2月5日
本所教会

イエス・キリストの十字架での受難と死にこそ復活の栄光があると信じるわたしたちは、自分の十字架を背負ってついてきなさいと命じられる主の言葉を心に刻みながら、現代社会にあっていのちを生き続けています。

特にこの三年間、新型コロナ感染症の状況の中で、わたしたちは、世界中のすべての人たちと一緒になっていのちの危機に直面し、どこへ進めば光が見えるのか分からないままに、暗闇の中を光を求めて彷徨い続けてきました。

いのちが危機に直面し続けるいまだからこそ、いのちは神の似姿として創造された尊厳ある存在であり、すべてのいのちは例外なく神からの賜物として与えられたと信じるわたしたちには、この世界の現実の中で特にいのちの意味について深く考え、責任を持って語り行動する義務があります。

いのちの尊厳を守りながら生きることは福音を生きることであると、教皇ヨハネパウロ二世は、回勅「いのちの福音」で強調されました。

教皇様は回勅に、「人間のいのちを守るようにという神のおきての深遠な要素は、すべての人に対して、またすべての人のいのちに対して、敬意と愛をしめすようにという要求して現れます」と記し、ローマ人への手紙を引用して、「愛は隣人に悪を行いません」と述べています。(41)

それにもかかわらず、わたしたちが直面するいのちの危機は深まり続けています。感染症によってもたらされた危機は、わたしたちを疑心暗鬼の闇に引きずり込みました。先行きが分からない中で、人は自分の身を守ることに躍起になり、心は利己的になりました。利己的になった心は余裕を失い、社会全体は寛容さを失いました。寛容さを失った社会は、暴力的、攻撃的になり、異質な存在を排除して心の安定を求めるようになりました。その結果は、深まる差別感情であり、異質な存在の排除であり、究極的には暴力を持って隣人のいのちを奪う戦争の勃発です。

この感染症の危機の中で、皆で光を求めなくてはならないときに、ミャンマーではクーデターが起き、すでに二年になるのに平和と安定への糸口は見えず、一年前にはウクライナで戦争まで始まりました。

教皇フランシスコは、このパンデミックの状況の中で、幾たびも、連帯すること、支え合うことが、この困難から抜け出す唯一の道であると強調されてきましたが、実際にわたしたちの前で展開しているのは、連帯や支え合いではなく暴虐と排除です。

このようないのちの危機が深まっているときだからこそ、いのちを賜物として与えられているわたしたちは、そのいのちを守ることを、いのちの尊厳に敬意を払うことを、互いのいのちに愛のまなざしを向けることを、あらためて愚直に強調し続ける義務があります。

教会にあって、殉教を遂げた多くの聖なる先達は、自分の十字架を背負ってついてきなさいと呼びかけられたイエスに忠実に生きることによって、主ご自身の受難と死という贖いの業に与り、それを通じていのちの福音を身をもってあかしされた方々です。

聖パウロ三木をはじめ26人のキリスト者は、1597年2月5日、長崎の西坂で主イエスの死と復活を証ししながら殉教して行かれました。自ら十字架での死を遂げることで、逆説的に、いのちの尊厳をあかしされた方々です。イエスの福音にこそ、すべてを賭して生き抜く価値があることを、大勢の眼前であかしされた方々です。すべてを投げ打ってさえも守らなくてはならない価値が、いのちの福音にあることをあかしされた方々です。

教皇ベネディクト十六世は、回勅「希望による救い」のなかで、 「人とともに、人のために苦しむこと。真理と正義のために苦しむこと。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために苦しむこと。これこそが人間であることの根本的な構成要素です。このことを放棄するなら、人は自分自身を滅ぼすことになります(「希望による救い」39)」と苦しみの意味を記しています。

苦しみは、希望を生み出す力であり、人間が真の神の価値に生きるために、不可欠な要素です。苦しみは、神がわたしたちを愛されるが故に苦しまれた事実を思い起こさせ、神がわたしたちを愛して、この世で苦しむわたしたちと歩みをともにされていることを思い起こさせます。

教会は殉教者たちが流した血を礎として成り立っていますが、それは悲惨な死を嘆き悲しむためではなく、むしろ聖霊の勝利、すなわち神の計らいの現実における勝利を、世にある教会が証しし続けていくという意味においてであります。わたしたちには、同じ信仰の証しを続ける責務があります。

26人の聖なる殉教者たちは、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」という、ガラテヤの教会にあてられたパウロの言葉を、その人生をもって生き抜き、証しいたしました。

26人の聖なる殉教者たちは、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」という、マタイ福音書に記されたイエスの言葉を、その人生をもって生き抜き、証しいたしました。

26人の聖なる殉教者たちは、信仰に生きるということは、そのいのちを失うこと以上に価値のあることなのだという確信を、殉教において証しいたしました。

26人の聖なる殉教者たちは、混沌としたいのちの危機の中で生きるわたしたちに、福音を生き抜くとはどういう意味があるのか、その答えを示されました。

「世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」と約束された主は、わたしたちと歩みを共にしてくださいます。ともに歩みながら、わたしたちが与えられた賜物であるいのちを、神が望まれたように充分な意味を持って生きることを求められています。わたしたちは、ともに歩んでくださる主に励まされながら、賜物であるいのちを守ることを愚直に叫び続け、互いに連帯し支え合うことで、主とともにその愛に生き、いのちを生きる希望を生み出すものでありたいと思います。