毎年恒例になっていますが、墨田区の本所教会では、2月の最初の日曜日に日本二十六聖人殉教者の殉教祭ミサが捧げられており、今年も2月2日にわたしが司式して捧げられました。聖年の巡礼ということもあり、今年のミサには様々な小教区の方々が参加してくださいました。(司教の日記より)
ミサ後、枢機卿に親任されてから叙任式までのお話がありました。
カトリック本所教会 日本二十六聖人殉教者祭
2025年02月02日
1944年の4月のことですけれども、新潟県の上越市、当時の高田ですけれども、高田の教会に、警察が踏み込んで、主任司祭と3人の女性の信徒を連行していきました。嫌疑は、不敬罪、治安維持法違反です。
1944年ですから当然、太平洋戦争の真最中ですけれども、なぜこの宣教師サウエルボルン司祭と3人の若い女性が、連行されたかというと、それは、特攻のスパイがサウエルボルン神父の聖書研究会の中に紛れ込んでいて、聖書研究会の中で何食わぬ顔をして「天皇陛下とイエス・キリストどっちが偉いんでしょう」と尋ねたわけですね。そして、神父さんは当然「イエス・キリストの方が私たちの救い主ですから、偉いに決まっています」と答えられた。
それで、逮捕されて戦争が終わるまで、裁判が行われましたけれども、1945年の終戦でやっと4人は釈放されて、その後その体験が非常に厳しいものであったと思いますけれども、サウエルボルンさんは帰国されて、二度と日本に戻ってくることはありませんでした。私の神言修道会の大先輩でもあります。
私が新潟の司教になってから、まだその一緒に捕えられた3人の女性のうちの一人がご存命でありました。
当時90歳を超えてられましたけれども、8月の平和旬間に講演をしていただいて、確か当時 94歳だったんですけれども 、その身柄を拘束された時の話をしていただきました 。
最後の質問の時に、どなたかが彼女に、「何が一番大変でしたか?」と尋ねました。そしたら「もちろん、2年近くにわって、警察署の中でどうなるか分からずに身柄を拘束されていたということはとても大変だったし、毎日のように、天皇陛下と神様とどちらが大切だと、問いかけられて答えに窮していた。その体験も去ることながら一番辛かったのは釈放されて出てきた後に信徒の方々からどうしてあの時あんなこと言ったんだ。どうして黙っていなかったんだ、そんなこと私は知りませんとどうして言わなかったんだという風に責められたこと、それが一番辛かった」という風におっしゃっておられました。
あの時にそんな無理してまで神様の方が大切だとか言わないで適当に口裏を合わせて言っておけば身柄を拘束されることもなく、連れて行かれることもなく、そんな苦しい思いをすることもなかったのにどしてそんなことをしたんだ。そう言われたのが一番辛かったという風に言っておられました 。
日本の26人の聖人殉教者たちも、もちろん殉教者たちの偉大な功績、そしてその人生の中で福音を証ししたこと 、その偉大さを称えるのは当然ですけれども同時にその時に信徒は26人しかいなかったわけではないのです。何百人 、何千人という信徒がいる中でなぜか、この26人が身柄を拘束されてそして殉教していった。その中に信徒も司祭も含めて「なぜあんなことを言うんだ」と、身柄拘束されそうになったら「私はもうそんな信仰は捨てます。宗教なんかどうでもいいですとどうして言わないんだ」と思った人が必ずやいると思います。
それがいいとか悪いとかということを言いたいのではなくて、それこそが私たちの人間の弱さであり、人間の本性であると思います。そういう危機に直面した時に適当なことを言って、言いつくろって、なんとか自分の命だけは守ろうとするのがほとんどの私たちの生き方だと思います。
この度、11月の頭にアメリカの大統領の就任式がありましたけれども、その翌日、国立大聖堂と日本語では訳されているのですけれど、聖公会のカテドラルで礼拝が行われて、そこに新しく就任した大統領も当然来ておられます。そして説教に立ったのは女性の主教さんでワシントンのマリアン・エドガー・パッディ主教がたって、説教した最後に大統領に向かって、直接、神の慈しみと神の哀れみと神の愛を忘れないでほしいと、いうことを様々な具体的な例を上げながら語りかけました。
それに対して、いろんなことが言われています。そこで話したこと、そのことの内容はさておき、その彼女が語ったこと、それ自体は彼女が信念として、宗教者としての信仰の信念として持っている。神は愛。命は神によって与えられているのだ。人は神の似姿として尊厳を持っているのだ。その神の与えてくださった命と神が与えてくださった人間の尊厳を守ること。そして神は慈しみと愛に溢れている。その慈しみと愛に私たちが習うこと。それは決して私たちが忘れてはいけないことなのだという、その信念を彼女はそこで、一つの懸念として大統領に向かってそれを忘れないでほしいということを語りかけたんです。あの場で一国の一番力のある人物、政治的に一番力のある人物を前にしてそれを言うということには、とても大きな勇気が必要だったと思います。
案の定、終わってから、大統領自身が非常に不快感を表明されたわけですけれども、今、アメリカは自由の国ですから、それで何かが、逮捕されたりとか迫害されたりということはないわけですけれども、それでも、今、現代の社会の迫害はインターネット上で起こっているので、ありとあらゆる罵詈雑言が 彼女に向かって浴びせかけられているのですね、なんていうことを言うんだ、そんな非現実的なことを言ってどうするんだと。非現実的だと思います。非現実的でありますけれども、でも私たちの信仰、信じていることは普通の人から考えたら非現実的であります。そんな信仰のために命を捧げて死んでいく。そんな馬鹿げたことはこの世界ではありえないです。信じていることのために自分の命を捧げて死んでいく。そんな愚かなことはこの社会の常識ではありえないのです。
でもそれを私たちの信仰の選択であるとはっきりと私たちに示している。これこそが 私たちの信仰を生きる道なのだ、妥協しないのだ。その場で言い繕わないのだ。その場で適当なことを言って終わらないのだと。私は私が信じていることをどこまでも徹底的に語り、行い、証をする。それに命をかけているのだということをはっきりと示してくださったのが私たちの信仰の先達の殉教者たちであり、そして、その後、脈々と続く教会の歴史の中で、様々な現実の中で、同じように自分の信仰の信念を決して妥協することなくしっかりと人々に示していったことによって命をかけていった人たちがたくさんいます。今回のその就任式の礼拝も同じように自分の信仰の信念を堂々と語ることによって命を危険にさらす、それほどまでの決意を示した殉教者の覚悟であったというふうに言われています。
今日は、本所教会の皆さんからリクエストがあったので、後でお話する時ちゃんと見えますけども、赤い枢機卿の服を着てきているんですけれども、この赤の服は、殉教者の血の色だと、教会のために命を捧げるだけの決意を持っているということを示すための、殉教者の赤の色だというふうに言われています。まさしくその通りだと思いますけれども、それだけに、与えられた使命は大きいなと思うと同時に、だからこそこの教会の歴史の中に脈々と繋がっている人たちの歴史、そして特に日本の教会にとっては一番最初に命を捧げられたこの26聖人の存在というのは私たちに今どう生きなければならないのか、ということをはっきりと教えているというふうに思います。私たち一人一人の様々な状況の中で、もちろん妥協を重ね、調子のいいとを言い、なんとかそこを切り抜けて生きていこうと、そういう人生を歩んでいるのかもしれませんけれども、やはり信仰に基づいて曲げることができないこと、信念として捨て去ることができないこと、それにしっかりと勇気を持って 生きる、語る、証をする、そういう人生を歩んでいきたいと思います。