ただ今マタイ福音書をとおして、イエスの十字架の死について読まれました。イエスは十字架上で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)(マタイ27:46b)と、叫ばれたと記されています。この十字架上でイエスは、二つの大きな誘惑を受けられたのではないかと思います。一つは人々にたいして、もう一つは神に対してです。
3年間労苦を共にした弟子たちは、イエスが捕らえられたとき、みな逃げてしまったのです(マルコ14:50)。イエスが入城したとき「ホザナ、ホザナ」(マタイ21:9b)と言って歓迎した群衆は、今度は「十字架につけろ、十字架につけろ」(ルカ23:21)と叫んだのです。またピラトは、イエスが無罪であることを知りながら、自分の保身のために十字架につけたのです。弟子たちを愛し、人々を愛し続けたイエスは、弟子からも、群集からも、政治的権力者からも見捨てられて、十字架につけられたのです。このような人々を最後まで愛せるかどうかという誘惑です。これに対してイエスは、自分を十字架につけた人々のために「父よ、彼らをお赦しください、自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)と祈っています。
またゲッセマネの園でこれから受ける受難と死を思い、苦しみもだえて血のような汗を流して「父よ、御心ならこの杯を取りのけて下さい」(ルカ22:42a)と祈ったにもかかわらず、十字架の死に追いやられた神に対して、最後まで信頼できるのかどうかという誘惑です。これに対してイエスは亡くなられる直前に「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ22:46)と言って息を引き取られたのです。
このようにイエスは、十字架上で受けた二つの誘惑に対して、最後まで人々を愛し、父なる神を信頼したと言ってもよいと思います。だからこそ、それを見た百人隊長は「本当に、この人は正しい人だった」(ルカ22:47)と言って神を賛美したのです。パウロはフィリピの信徒への手紙の中で、キリストは「死に至るまで、それも十字架の死にいたるまで従順でした」(2:8)と言っています。私たちもこのイエスの生き方にならい、最後まで人々を愛し、神に信頼していきたいものです。