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2006年2月5日
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本所教会恒例の『日本26聖人殉教者祭』は、2月5日(日)に、約300名の巡礼者を迎え盛 大に行われました。巡礼者は東京教区、横浜教区、さいたま教区、遠くの方は大阪教区、鹿児島教区からもいらしていただきました。 |
第一部・準備の祈り
福音の歌は、全員が起立してルカ福音書の「ザカリアの預言」(1・68-79)の部分を祈り、主の祈りと続き、結びの祈願で「日本二十六聖人を十字架の詩を通して永遠のいのちにお召しになりました。この殉教者の取り次ぎを願うわたしたちに、死に至るまで力強く信仰をあかしすることができますように」と祈って結ばれました。
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第二部・ミ サ
入祭のあいさつ、回心の祈りのあと、あわれみの賛歌、栄光の賛歌に続き、集会祈願で『殉教者の取り次ぎによって、死にいたるまでの力強い信仰の証』を願いました。 福音朗読は伊藤師が行い、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたたちは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタイ28・16〜20)と、弟子たちを派遣する場面を読みあげました。 説教はマルコ・アントニオ・マルチネス・フランコ師(以下マルコ師と略)が担当なさいました。「いまの聖書朗読で『すべての民をわたしの弟子にしなさい』という主イエス様の最後の命令、最後の掟がありましたがもうひとつの訳では『全世界へ行って、福音を宣べ伝えなさい』です。『全世界』です。この最後の命令を守るために、みんな自分の家庭を放って、アフリカとか、インドとか、ラテンアメリカに行かないと、イエスさまが命じていることが、実行できないのではないですか?そんなことはないですね。世界には、いろんな世界があるのです。そんな遠くに行かなくてもいいのです。新宿の歌舞伎町、六本木ヒルズの世界もあり、山谷の世界もあるのです。その世界に行って、キリストの証し人になってください。第一朗読で使徒パウロは、『キリストはわたしの中に生きているのです』。それを証しするのは当たり前です」と話されました。 そして、「自分の洗礼の時のことを思い出してください。白衣を渡すときに、『あなたは新しい人となり、キリストを着るものとなりました。神の国の完成を待ち望みながら、キリストに従って歩みなさい』。『キリストを着るものになりました』。 説教に続いて、信仰宣言を声高く歌われ、共同祈願は下町宣教協力体によって、祈られました。 「感謝の典礼」に移り奉納の歌で、殉教者をたたえる「真理のあかし」と「ひとつぶの麦」が歌われました。その中を下町宣教協力体の各聖堂共同体の信徒代表で、ホスチアとぶどう酒を奉納しました。献金は案内係によって集められ、奉納されました。パンとカリスを供える祈りに続く奉納祈願では「日本26聖人が、愛に支えられ、苦しみに勝ったように、わたしたちの心にも愛の火を燃えあがらせてください」と祈り、次いで殉教者の叙唱、感謝の賛歌が歌われました。 交わりの儀を終え、参列者が互いに平和のあいさつを交わし、平和の賛歌へと続き、拝領前の信仰告白を行って聖体拝領に移りました。聖体授与は、祭壇前でマルコ師と深水師、聖堂後方で伊藤師が授けられました。その間、「マラナタ」「ルドビコさま」が歌われ、続く「母上さま(トマス小崎賛歌)」は、聖体と殉教者への想いを新たにさせられ、涙ぐんで歌われている方もありました。拝領祈願では、「日本26聖人のうちに、十字架の神秘を現し、主の過越にあずかったわたしたちがキリストに従い、すべての人につくすことができるように」と祈られました。 派遣の祝福、閉祭のあいさつのあと「26聖殉教者賛歌」が高らかに歌われるなか、十字架を先頭に、祭壇奉仕者、司祭団が退堂しました。
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第三部・講 演 実は、本所教会は、今日で二度目です。 「何で、自分でキリスト者だと?」「教会に来られるから」「シスターは、どうして自分でキリスト者だと?」「幼児洗礼だから」「あなたは?」「神様を信じているから」「はい、若い人。どうして自分でキリスト者だと?」「信じていますから」「あと二人ぐらい。どうして自分でキリスト者だと?」「信じているから」はい。「アーユークリスチャン?」「Yes」「Why?」「ビコーズ、ビリーブ イン ゴッド」 皆さん。いいですか、皆さん。皆さんの答えは、「×」です。なぜ自分でキリスト者だと思っているのですか? 洗礼を受けているから。教会に来られるから。維持費を払っているから。もう天国に行くグリーン車の切符も買ってあるから。お祈りをするから・・・。そういう意味じゃないのですね。 よく思い出してください。使徒言行録の11章、そこに何が書いてあるのですか? パウロとバルナバがアンティオキアに行きました。アンティオキアは、現在で言えば、パリかニューヨークのような大きな町です。そこで、パウロとバルナバは、道ばたで、どんな人にも「ちょっと、ちょっと聞いてください。神は人間になりました。十字架につけられて、復活した。それは、キリストのことです。」と話しました。そして、何回もキリストのことを話しましたから、あだ名で『キリスト者』と呼ばれるようになったのです。 キリストを証ししたからキリスト者と呼ばれていたのです。教会の維持費をちゃんと払っているとか、朝の祈りはちゃんとするとか、教会のためにいろいろ尽くしているとか、そうではないのです。先ほどの説教の時にも言いましたが、キリストは自分の身についているから、それを証しすることでキリスト者と呼ばれるのです。では、もう一度聞きます。自分でキリスト者という方は手を上げてください・・・。 ちょっと、さみしいですねぇ。でも、遅くはないのです。特に今日は、二十六聖人の取り次ぎを願っているのです。たぶん、わたしたちは、彼らの証しと同じことは出来ないかも知れませんが、キリストの証し人にならなければならないのです。
ちょうど、400祭の実行委員会、私はそこに行っていましたから、ちょっと皆さんと分かち合いたいことがあるのです。そして、具体的に、聖フェリペ・デ・ヘススの人生と証しに入ります。その次が、聖フェリペと私。それも、どうしても、皆さんと分かち合いたい出来事があるんです。そして、最後に二十六聖人の連願を唱えて、最後の祈りにしたいと思います。 それでは、最初はメキシコの歴史です。メキシコは万華鏡のような国です。万華鏡はちょっと動かすだけで、何か素晴しい違う形になるのです。メキシコもそうです。メキシコには今でも44位の民族がいるのです。車で1時間か2時間走ったら、まったく雰囲気が変わるのです。民族が違うのです。ことばも違うのです。方言じゃないのです。本当に別の言葉になるのです。文化も違う。食べ物も違う。衣装も違う。音楽も違う。そして、一番知られているメキシコの歴史は、東洋からアラスカを渡って、メキシコシティーまで歩いた民族があったのです。それは、アステカ人、アステカ文明だったのです。アステカの人には、いろんな神様がいたのです。雨の神様、風の神様、トウモロコシの神様。その中で一番偉い神様は、ウィツィルポチトリという神様。神様の中で一番偉い神様だと。
メキシコシティーは、高度が2400bあるのです。そこで、綺麗な湖が見つかったのです。その湖の真ん中に、その神様、ウィツィルポチトリから教えられたしるしがあったのです。どんなしるしだったかと言いますと「サボテンの上に、鷲がいて、その鷲は、蛇をつかまえている。そのくちばしと爪でつかまえているのです。そのしるしを見たら、そこは、あなたがたの土地です。」 考えてみたら、東洋にもそういうものがあるのではないですか? 龍、ドラゴン。蛇でもない、鳥でもないけど、何かを表わしている。そこからこんなしるしを作るのです。でも問題は、これがアステカの話ですよね。アステカの話は、ある民族だけだったのです。 トルテカ、チチメカ、サポテカ、テオティワカン。テオティワカンには大きなピラミッドがあるのです。メキシコシティーから1時間ぐらいかかります。 太陽と月のピラミッド。メキシコのピラミッドは、エジプトのピラミッドと違うのです。エジプトのピラミッドは、お墓だったのです。メキシコのピラミッドは、祭壇です。出来るだけ神様に近いところに登って、そこでいけにえを捧げたのです。でも、いくら近くても、このテオティワカンの民族には、先ほどお見せした鷲と蛇のしるしは、何も意味が無いのです。そして、それぞれ、全国に違う民族があるのです。 この写真はメキシコの大聖堂、カテドラルです。皆さん、どう思いますか? 京都の東本願寺や西本願寺、また伊勢神宮の柱を全部潰して、それでカトリックの教会を建てたら、どういう気持ちになるのでしょうね。でも、事実は、そうなのですね。そういう、歴史がゴチャゴチャの、文化の違う、言葉の違う民族が、どうやってひとつの国になることが出来るのでしょうか。 そこで、1531年。ある出来事があったのです。メキシコの歴史が大きく変わった出来事です。 あの時は、スペイン人が支配していて、ここに住んでいた人はインディアンと呼ばれていました。インディアンたちは、洗礼を授けるに相応しい者だろうか。もしかしたら駄目なのではないか。そして、わざわざローマまで手紙を送って、この者たちに洗礼を授けても良いですかと聞いたのです。そんな時、グアダルペのマリア様が現れました。 ひとりの貧しいインディアンに、スペイン語が出来ない、インディアンに現れたのです。ある日、彼はメキシコシティーの近く、北のほうの山から、公教要理のために教会に来る途中で、その方に出会ったのです。そして、彼女は、スペインとかの言葉ではなく、インディアンの言葉で話しておられたのです。「司教さんのところへ行って、ここに教会を建てて欲しいのです。ここで、母なる私は、皆に愛を見せたいのです。」そして、そのインディアンは、司教さんのところに行って話をした。もちろん、相手にしてくれなかったのです。だれが信じるでしょうか。こんな無学なインディアンが言うことを。
そこで、こんな万華鏡の40以上の民族はひとつになったのです。今でも、どこの家に入っても、金持ちの家、貧しい人の家、学問のある人、そうでない人、みんなマリアさまの御絵がどこかにあるのです。本当に、マリア様はひとつの国を作ってくださった方なのです。それが私たちの自慢。ウルバノ教皇様が、この話を聞いて、こういう言葉を残してくれた。「ノン ペチタリテ オムミナシオネ」こんな素晴しいことを、神様は他の国でやっていないのではないですか。 司教団で、皆でそういうことを決めたのです。その宣教会で、宣教師を育てて、どこかに送るために。私たちの乏しさの中から、分かちあえることがたくさんあるのです。そして、今のグアダルペ宣教会が誕生したのです。そうして間もなく、初めて三人の宣教師を外国に送りました。どこに送ったと思います? それは、日本。いちばん最初に日本です。ちょうど今年は、私たちの会の来日50周年になります。
聖フェリペ・デ・ヘススは日本では活動していなかったのです。彼はマニラからメキシコへ行く途中だったのです。何でマニラに行ったのでしょうか。実はフェリペ・デ・ヘススはとんでもない腕白坊主だったのです。本当に困った子だったのです。お父さんが金持ちだったから、召使いの黒人がいたのですが、その召使いは本当に困っていました。いたずら坊主のおかげで。でも、フェリペのお母さんは、「大丈夫、大丈夫。この子は聖人になるのです。」「この枯れているいちじくの木、また、実を結んだら、この人は聖人になる。」と言っていました。その黒人の召使いは、こんな子どもが聖人になるなんて無理だと思ったのです。 それから、お父さんとお母さんは、フェリペを何とか直すために、仕方がないので、フランシスコ会の修道院に入れたのです。フェリペは、もう我慢できなくて、2,3ヶ月で逃げ出したのです。修道院からです。そして、お父さんの仕事を手伝っていたのです。お父さんは、銀と木の品物を作っていたのです。彫金とかお皿とか、いろいろあったのです。そこで、フェリペはそういう仕事もやっていたのです。話によると、彼は銀の箱は作ったのです。とても綺麗な箱だったのです。でも、彼はまだ、思春期だったのです。また遊んでばかりいて、博打もいろいろとやっていたのです。そして、お父さんは「困ったものだ」と、スペインの軍隊に入れたのです。 ですから、スペインの軍人としてマニラに行ったのです。そこで何があったのか。そこまで私たちは分かりません。でも、回心し、自分の意思でフランシスコ会の修道院に入ったのです。18歳の時です。そして、18歳から22歳まで勉強して、司祭になるためにフェリペ号に乗って、メキシコに帰る途中だったのです。
そのあと、京都からの道が始まったのです。どんなに辛い道だったか。皆さん、もう、そういう話は何回も聞いたことがあると思います。その中で、子どもの話もあるのです。
ここで、聖フェリペと私の話に入りたいと思います。個人の話になりますから、ここだけの話にして受け止めてください。私が子どものとき、日本のことを初めて知っていた言葉は「長崎」でした。なぜかと言いますと、あの時は、二十六聖人の記念館を建てていたのです、そして、道ばたで、空き缶で「長崎のためにお願いします。長崎のためにお願いします。」と資金集めをしたのです。 考えてみてください、あのころメキシコはどんなに貧しかったかをです。しかし、そのお陰で今の二十六聖人の記念館があるのです。 小さいですけれども、少しでも、そこにメキシコ人の協力があったのです。 そして、その二十六聖人の話を初めて聞いた時、本当に、自分の心の中で何か燃えていたのです。私も日本に行きたい。でも、まだ子どもだったので。そして、高校を卒業して、私は宣教師になりたいと思ったのです。教区の神父になろうとは思っていなかった。とにかく私は日本に行きたかった。グアダルペ宣教会は出来たばかりでしたから。だから、そこに入りたいと。そして、日本に行きたいと。そして、入りました。そこで8年ぐらい勉強をしたのです。ちょうど第二バチカン公会議が終わったところだったのです。 バチカン公会議ではいろいろなことが変わったのです。公会議によって、出来るだけ宣教師は、働く宣教地に行って、そこで勉強するように勧めたのです。それを知って、私は、これだ、と。そして、私はいきなり総長のところに行きました。総長は司教さんだったのですが、神学生が総長のところに行って話をするなどとても考えられないことですけれど、私は勇気を出して言いました。「日本に行きたいのです。」「ああ、そうですか。それで日本に行ったらどうするのですか。」「日本人の神学生と一緒に勉強したいのです。」「それはなかなか難しいですね。言葉もたいへん難しいし、文化とか、食事とかいろいろあるのですけれども、まぁ、考えて見ます。」と言ったのです。 ちょうどその時は、日本の管区長がメキシコに休暇で帰って来ていたのです。そして、彼とも話をしました。「日本に連れて行ってください。」「だけど、まだ勉強が終わってないですね。」そのころは哲学までは終わっていたのです。後は神学だけが残っていたのです。そこで、神学院の院長が、そのことを知って、「何やってるの、君は。君はいつも違うことを考えている。何で総長にそんなことを言いに行くのですか。なぜ先に院長と話さなかったのですか。」別に、直接行けばいいんじゃないかと・・・。結局は、哲学3年終わったら、神学校から追い出されたのです。もう、仕方がない。とりあえず1年間は家に帰ってください。 この1年間、休学か、退学か、本当に淋しかったのです。 そうしましたら、前の総長が亡くなって、日本の管区長が総長になったのです。そして、「マルコはまだ日本に行きたいのですか」。私は神学校にいなかったのです。元神学生だったのです。「行きたいのですけど、これは無理です。」「いいえ、神様の思し召しなら、大丈夫です。」そこで私は、聖フェリペ・デ・ヘススの教会へ行って、本当に頼んだのです。「何とかしてください。もし本当に私が日本で宣教師の仕事が出来るなら、助けてください。あなたはそこで血を流したのではないですか。」 そして、それでいろいろとあって、結局半年ぐらいかかったのです。ある日、総長に呼ばれ「君は日本に行きます。初めて、神学生として、グアダルペ会は日本に送ります。どうぞ安心して頑張ってください。」と言われました。もう嬉しくて、嬉しくて、また聖フェリペの教会に戻ってきて、本当に感謝の気持ちでいっぱいだったのです。 そこで、皆さんにお勧めいたします。本当に、もし、出来が悪い息子や娘がいましたら、聖フェリペに祈ってください。本当です! 迷信だと思われても結構ですけれども、私はこういう経験があるのです。聖フェリペは、ここ日本で血を流したのです。自分の人生にはいろいろな曲り道があったのですが、最後にキリストの喜びを証ししました。
聖フランシスコ吉 ▲我らのために祈りたまえ 聖アントニオ ▲我らのために祈りたまえ 聖ペトロ・バプチスタ ▲我らのために祈りたまえ 聖ガブリエル ▲我らのために祈りたまえ
そして皆さん、終わりに、聖フェリペ・デ・ヘススの最期の叫びがありました。彼は日本語を知りませんでした。二十六聖人の中で、一番先に命を捧げたのが聖フェリペ・デ・ヘススです。その聖フェリペ・デ・ヘススの最期の三つの言葉が、スペイン語でこれだったのです。「JESUS」「JESUS」「JESUS」。 どうか皆さん、聖フェリペと同じ気持ちになって、大きな声で、同じ叫びを神様に捧げましょう。3回です。「JESUS」「JESUS」「JESUS」。
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第四部・茶話会
ことしは、聖堂を出たところでルドビコクラス(教会学校)の児童らにより、手づくりのおにぎりが配られ、 会場の花が添えられたテーブルには、 サンドウィッチ、鳥手羽先唐揚げ、などが置かれ、また豚汁とふかひれスープも、配られ皆様に味わっていただきました。、 聖堂前庭ではサンパウロ(聖パウロ修道会)が、売店を設け書籍をはじめ聖具の販売を行いました。 教会全体で26聖人殉教者祭を盛りあげるために、皆様の協力・奉仕を経て盛大理に終了しましたことを感謝いたします。
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